海舶互市新例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
海舶互市新例(かいはくごししんれい)とは、新井白石が1715年(正徳5年)、国際貿易額を制限するために制定した法令。長崎新令とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 背景
当時はいわゆる鎖国中であったが、周知のとおりオランダと清とだけは出島を介して貿易が行われていた。当然、対価として支払う金銀は莫大な量に上った。新井白石が調査した結果、僅か60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が国外に流出していた。
そして100年間では何と日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅に関しても、45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。当時は金や銀を貨幣の代わりにしていたため、このような事態はいずれ避けられなくなる宿命にあったのだ。
これを野放しにしておけばあと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまうと懸念した白石は、貿易制限に踏み切ることを決断。1715年(正徳5年)、海舶互市新例《長崎新令》(例・令の字に注意)を定めた。
[編集] 内容
年間の貿易枠を次のように定めた。
- 清…年間30隻、取引額は銀6000貫
- オランダ…年間2隻、取引額は銀3000貫
輸出品については俵物(いりこ・干し鮑・フカヒレなど)・昆布やするめ、真鍮製品や蒔絵、伊万里焼などの美術工芸品に限定。
[編集] 結果
ところが、当時の清では金より銀のほうが価値が高いとされ、中国の商人達は金を日本へ運んでいたのである。金1匁に対し、銀10~20匁というレートであり、結果として流出した金のうち、6割強は再び日本へ流入していたのだった。しかも極めて消極的な改革だったため、輸入超過はなかなか解消できなかった。このことから、白石はむしろ積極的に貿易を推進し、金銀の流入を考えるべきだったと言える。
[編集] 参考文献
- 『徳川将軍百話』中江克己著、河出書房新社