渤海人
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渤海人は、7世紀〜13世紀にかけて、中国東北部から華北にかけて存在した民族である。この項では民族としての渤海人を扱う。歴史上に存在した国家としての「渤海国」については、別項渤海 (国)を参照。
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[編集] 渤海民族の起源と成立
そのルーツは、朝鮮韓国では高句麗人説が信じられているが、中国の学界では靺鞨人説が有力である。また日本では、渤海国建国後の両者の混血という折衷案的な言説が好まれる(しかし最近では靺鞨人そのものが系統の異なる諸民族の連合体であったとの説が浮上している)。(渤海人の言語については別項渤海語を参照)
[編集] 渤海国滅亡後の民族の歴史
渤海国滅亡後も、大光顕が民衆の一部を率いて高麗に亡命したが、それ以外の多くの渤海人は中国東北部で歴史を営んだ。
その渤海国の遺民は大きく三系統ある。第一は、契丹によって遼陽に集められた渤海人で文化のすすんだ都市民。第二は、独立政権を模索して満州の大地で興亡していた勢力。第三は、女真人である。「女真」という言葉は、史料上、渤海国滅亡以後に現われ、「民衆」の意味であることから「渤海国の遺民」の自称であろうという説もある。しかし渤海人と女真人は、彼らの自意識はともかく、文化的には異なっていた。
金王朝が勃興すると、金の帝室・完顔氏は、渤海王の大氏の子孫と称した。渤海人は女真族の金王朝に中国文化の担い手として協力し、金王朝は渤海人を貴族として優遇した。金帝国において、渤海人貴族からは大臣や皇后を輩出している。金の滅亡後も渤海人は、高麗人とも女真人とも契丹人とも中国人とも異なる確立したエスニシティーをもった特定の一民族として、モンゴル帝国の時代まで存在し続けた。
[編集] 渤海民族の消滅
満族・漢族に吸収されて消滅したのは元代以後のことである。
[編集] 渤海民族の国家
渤海人が建てた国で重要なのはなんといっても渤海 (国)である。これが渤海民族成立のきっかけであった。その後は以下の通りである。
※皇帝を称したもの
※王を称したもの
※その他、渤海遺民によるもの
- 大鸞河の勢力 979年〜984年
※異民族によるもの
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