王敦
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王敦(おうとん、266年 - 324年)、字(あざな)は処仲、琅邪郡臨沂の人。琅邪王司馬睿(のちの元帝)を擁立し、従弟の王導と共に東晋を建国した。人望があり、機略に富んでいたとされる。また書家の王義之の従父(父の“いとこ”)に当たる。
八王の乱を逃れた司馬睿が、王導の献策により建業に移ったとき、王敦もこれに従い江東の地に入る。315年には、都督江揚荊湘交広六州諸軍事・江州刺史及び漢安侯となる。 やがて、西晋の愍帝が、劉曜に捕らえられると、晋王となった司馬睿により、大将軍の位を授けられ、軍事の全権を掌握した。
[編集] 王敦の反乱
322年、王敦は武昌において挙兵する。大義名分は、東晋の皇帝となった元帝の側近であった劉隗と刁協らの誅殺であった。王敦は、石頭を守備していた元帝配下の周札を自軍に引き入れることに成功し、官軍に対し大勝利を収める。 因みに、従子の王允之は従父・王敦らの反乱の話をたまたま訊いていたために、口封じのため、従父らに殺されるのを恐れた彼は口に指を入れて、わざと嘔吐して病人を装って難を逃れたという。
事態を重く見た元帝は、王敦に対し、共に天下を治めていくことを誓約し、王敦もこれに応じる。丞相になった王敦は、自らに敵対した者たちを殺害した。
やがて、元帝が崩御し、太子が明帝として即位した。324年、明帝は専横を極めていた王敦を征伐するための詔勅を下した。 王敦は再び軍を起こし、晋に対して反乱を起こすが、越城において敗れた。また、この時に病を患っていた王敦は、同年、病没する。
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