王経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
王経(おうけい、?-260年)は、中国の三国時代の人物で、魏の重臣。字は彦緯。
清河の人。名士として知られていたため、中央に出て官職に就くこととなった。江夏の太守、尚書と昇進している。255年、蜀の姜維が洮西に攻めてきたときは、これと戦ったが大敗している。しかし同僚の陳泰の援軍によって助けられた。その後も昇進を続けたが、彼の母は『卑賤の身分からここまで出世すれば、もういいでしょう』と、王経の出世が中央政界の災いに巻き込まれることを恐れていたという。そして母の予感が的中する。260年、皇帝の曹髦が司馬昭の専横に憤ってクーデターを起こそうとしたのだ。王経は無謀だと懸命に諌めたが、曹髦はそれを聞かずにクーデターを敢行して殺害されてしまう。
曹髦の死後、王経は司馬昭に曹髦のクーデターを事前に報告しなかったため、それを理由に母もろとも処刑された。処刑される前、王経は母に不孝を詫びたが、母は「このような理由で死ぬのであれば、私はむしろ満足していますよ」と誇らかに答えたという。
死後、遺体は部下であった皇甫晏が全財産を司馬昭に差し出して引き取り、埋葬したといわれている。