田坂義詮
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田坂 義詮 (たさか よしあき、文亀2年(1502年) - 天文20年(1551年)、全慶とも)は戦国時代の武将で小早川氏の重臣。
小早川氏の庶流にあたる土倉氏の流れに連なり、桓武平氏とされる。摂津守、のち入道して全慶(ぜんけい、善慶とも)と号した。
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[編集] 出自
田坂家は小早川氏8代当主・小早川貞平の次男である土倉夏平を祖とした小早川氏の庶流とされる。
全慶の子の孝春によって開かれた慶照寺において延宝7年(1679年)に記された慶照寺縁起によれば、元は美濃国の浪士であり、故あって毛利家に仕えるようになったとされている。また、伊予国にも田坂を名乗る豪族が存在するため、関連性が示唆される。
[編集] 居城
田坂家の居城は安芸国沼田庄小坂郷(現在の広島県三原市小坂町)の稲村山城である。
この城は15世紀初頭に田坂義忠(右馬允)によって築城されたものであり、沼田小早川氏の居城である沼田庄本郷の高山城(広島県三原市高坂町)を眺望することができる位置にあった。
なお、後に述べる通り落城した為、かつて城のあった山頂付近は空き地となっている。遺構らしきものは殆ど無いが、山の西側中腹には石垣の痕跡らしきものが複数見て取れる(ただし現在は獣道があるのみで見る事は非常に困難)。
[編集] 統一の犠牲に
全慶は沼田小早川家の家老職にあった。この時、毛利家から小早川隆景を養子として迎えた竹原小早川家が勢いを増している一方で、小早川氏の宗家にあたる沼田小早川家は13代扶平、14代興平、15代正平の3代の当主の早逝、および16代当主である繁平の失明などによってその立場を脅かされていた。
その為、小早川隆景を沼田小早川家に迎えようとする一派と、沼田小早川家の当主は小早川の一族から出すべきとする一派の対立が沼田小早川家中に起こった。この時、後者の中心人物となったのが全慶である。
しかし、毛利元就からの圧力などもあり、抵抗空しく小早川隆景は沼田小早川家を相続することとなった。そして正式に沼田小早川家を相続した隆景(一説によれば毛利元就)は、後顧の憂いを断つために隆景の沼田小早川家相続に反対した一派の粛清を行い、これによって稲村山城は落城、全慶は討ち死にし、戦国武将としての田坂家は絶えた。
[編集] 末裔
全慶は上に述べた通り、粛清によって討ち死にし、その子である頼賀も殺害された。
しかし一族が全て殺害されたわけではなく、子の孝春、また弟の善應は出家して僧となることで粛清を免れることが出来た。孝春の末裔は現在も慶照寺の住職を務めているようである。
[編集] 墓所
田坂全慶の墓は、広島県三原市小坂町の稲村山城址にある。また、子の頼賀の墓は広島県尾道市の観音寺にある。