田村怡与造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
田村怡与造(たむらいよぞう、安政元年(1854年)10月10日 - 明治36年(1903年)10月1日)は、明治期の陸軍軍人。
[編集] 略歴
甲斐国東山梨郡相興村中尾(山梨県笛吹市一宮町)に生まれる。田村家は中尾神社宮司の家系で、祖は武蔵七党の西党に属していたという。弘綱の代で田村姓を名乗り、室町時代に武蔵国から甲斐へ移る。一宮の私塾で学び、塾頭となる。明治5年に学制が敷かれると中尾学校(のちの一宮北小学校)の校長となる。早川家の娘を妻に迎えて養子となり早川姓を名乗る。
明治8年(1875年)2月に上京し、東京府市谷の陸軍士官学校の2期生として入学。明治11年(1878年)に卒業し、歩兵少尉として熊本歩兵連隊第13連隊(隊長は川上操六)に配属され、新兵教育を行う。翌12年には参謀本部出仕となり測量課に配属され。翌13年には陸軍士官の教官となる。薩長藩閥の弊害を憂いていた長岡外史や浅田信興が結成した「月曜会」にも参加。
参謀将校の小坂千尋に勧められ、明治16年(1883年)4月にドイツ帝国へ留学し、ベルリン大学校で学ぶ。本国へのドイツ情勢報告書が評価され、2年の留学期間を延長して滞在し、川上操六とともに軍事研究に励む。明治18年(1885年)にはドレスデンで実戦訓練に参加、6月には歩兵大尉に昇進。明治21年6月に帰国し、監軍部(のちの教育総監部)へ配属される。翌22年には参謀本部第一局員となり歩兵少佐に昇任し、陸軍大学校御用掛も兼ねる。陸軍のフランス式からドイツ式軍制への転換に務め、『野外要務令』、『兵站勤務令』の策定や、陸軍演習の作戦計画を担当。
明治26年(1893年)、朝鮮半島での利権を巡り中国の清朝との関係が緊迫化すると、情勢把握のため参謀次長の川上操六らと半島へ渡航し、江南地方まで巡回する。帰国後は軍事情勢の分析や対清戦争を想定して陸軍の戦時編成を立案。大本営が設置されると、戦略を担当する川上に対し、動員令の策定や作戦実務を分担する。翌明治27年に勃発した日清戦争では、はじめ兵站を担当し、8月には前線での作戦指導を命じられる。中佐に昇進して第一軍参謀副長(司令官は山縣有朋)となり、参謀総長の小川又次を補佐。独断で奉天への進撃を強行する山県や小川とは意見の齟齬があり、大本営に意見具申している。12月に勅命により山県が更迭されると同行して帰国。帰国後は待命となり、監軍部へ戻る。翌明治28年2月には歩兵第9連隊長となり再び前戦へ渡航する。
戦後はベルリン公使館付武官として赴任命令が出るが、同年10月に韓国で王城事変が起こると現地での調査を命じられ、翌明治29年にドイツへ赴任。翌明治30年には帰国し、大本営勤務となり第二部長に就任、明治32年には第二部長となる。同年には仮想敵国のロシア帝国との戦争が想定されているなか参謀総長の川上が死去し、後任には大山巌、参謀次長には寺内正毅が就任し、田村は参謀部長に抜擢される。明治35年(1902年)に参謀次長に就任。田村は日露開戦には消極的であったがロシア帝国との戦争を想定して戦略を練り、過労のため日露戦争開戦の前年に死去、享年50。後任には内相の児玉源太郎が降格して就任した。
墓所は東京都港区南青山の青山霊園。
[編集] 人物
優れた戦略家とも評され、川上操六は山梨出身の田村を戦国時代の甲斐国主武田信玄になぞらえて「今信玄」の異名で呼び、小川又次を「今謙信」と評して対比させた。陸軍軍医で後に作家に転身する森鴎外(林太郎)とも親交があり、鴎外の『独逸日記』にも記されている。鴎外は明治18年に衛生学研究のためドイツ留学しており、田村とともにクラウゼヴィッツの『戦争論』を研究。田村は鴎外の小倉師団在任中に同書の翻訳を勧めたといわれる。
娘は陸軍大尉本間雅晴の妻
カテゴリ: 人物関連のスタブ項目 | 日本の陸軍軍人 | 1854年生 | 1903年没