甲斐姫
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甲斐姫(かいひめ、元亀3年〔1572年〕?-?)は、戦国時代から江戸時代初頭にかけての女性で、豊臣秀吉の側室。
忍城(現在の埼玉県行田市)城主・成田氏長の娘で東国随一の美女と言われ、兵法・武芸に秀でた姫君とされる。功績については伝説的な要素が強く、作り話だとする説もある。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際、父と主な将兵は本城である小田原城に入っており、忍城にはわずかな兵と城下の民たち合わせて300人程度しかいなかった。 6月、この城に石田三成率いる二万余の大軍が攻めてくる。すでに別の城をその圧倒的な兵力で落としてきており、楽に落とせると思っていたようだ。 しかし、この城は周りを湿地に囲まれていて大軍が攻め寄せることが難しく、成田泰季に率いられた籠城軍の指揮は高かった。[1] そこで、備中高松城同様、水攻めにしようとするが、籠城兵が堤防を決壊させたため、貯まっていた水は三成軍を押し流し、多数の死者を出した。[2]
さらに、甲斐姫は自ら鎧兜を付けて兵と共に打って出、三成軍を翻弄したとされる。わずかな兵力に引きずり回され、なかなか落とせない。 そこへ真田昌幸・幸村父子、浅野長政勢が援軍に差し向けられて来た。さすがの真田勢の猛攻に城門の一つが突破されそうになる。この時、甲斐姫自ら兵を率いて甲斐姫自身が敵将・三宅高繁をはじめとして幾多の首を討ち取り、敵の侵入を阻止することに成功したとされている。 城兵の士気はますます上がり、結局その後も幾度も攻撃を仕掛けたが、ことごとく撃退され、城内に入ることが出来ずに7月になってしまった。
7月5日。本城・小田原城は開城し落城する。 そのことを知らない甲斐姫たち忍城籠城兵はその後も籠城し続けるが、15日頃になって父・氏長より「小田原城が開城したからそちらも開城するように」という指示があり、甲斐姫たちは正々堂々城を出たと伝えられている。このときは戦国の世には珍しく籠城兵たちの罪は問われず、財産も保証された。
その後、父と共に蒲生氏郷に預けられ、岩代福井城に住むが、父の留守中に家臣の浜田将監と弟・十左衛門が謀反を起こし、本丸を占拠。義母も殺されてしまう。しかし、甲斐姫は異変を知るや、敵兵を切り伏せつつ浜田兄弟を探し、父が異変を知って引き返して来たのと合流して二人を討ち取り、鎮圧したとされる。[3]
後に甲斐姫の武勇談を聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫を大変気に入り側室にした。そのため、父・氏長はその後甲斐姫の口添えもあって次の年、つまり1591年下野国烏山城主として二万石の大名になることができたという。のちの烏山藩である。
豊臣家滅亡の際には、千姫のとりなしで死を免れ、近親者で豊臣秀頼の側室となっていた小石の方?(成田直助の娘)とその娘・天秀尼(秀頼の長女)と共に大阪城から脱出し、鎌倉の東慶寺に入り尼となったという。
上記のような甲斐姫は人気があり、小説などの題材にもされている。
[編集] 脚注
- ^ この籠城戦の途中で城代・成田泰季は病死し、甲斐姫が指揮を引き継いだとされている。
- ^ このことで諸将から笑いものにされ、「三成は戦争が下手」というイメージが固定化された。しかし、近年、三成と秀吉のやりとりが見つかり、この水攻めは秀吉からの直接の指示で行われ、三成自身はこの地形とその期限では(将兵たちも自分の言うことを聞かないし)難しいと反対していたとされている。
- ^ この浜田兄弟の謀反は忍城で起きたという話しもある。これは福井岩代城から比較的短時間で烏山城に移動になり、実際に住んでいた時間がかなり短い為。
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