真田幸教
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真田 幸教(さなだ ゆきのり、天保6年2月13日(1835年3月11日) - 明治2年10月18日(1869年11月21日))は、信濃松代藩の第9代藩主。父は第8代藩主・真田幸貫の子・真田幸良。母は村上英俊の妹・順操院(心戒)。正室は松平頼恕の娘・晴子。側室に山本氏、児玉氏、前島氏など。子に長男幸世(後に分家し、男爵となる)、娘(石川成徳室)。官位は従四位下、伊豆守、信濃守、右京大夫。
天保6年(1835年)2月13日誕生。父幸良は早くに死去していたため、祖父幸貫の嗣子となる。嘉永5年(1852年)5月6日、祖父幸貫の隠居により家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航で、横浜警備を務めた。その後も江戸湾警備などを務めている。藩政では、藩財政再建のために安政2年(1855年)、藩士の知行借上を行なった。しかし祖父と違って統率力に乏しく、藩内で佐幕派と尊王派が争うのをまとめきることができず、結果として幸貫が登用した佐久間象山など人材を使いこなせなかった。しかし佐久間象山が暗殺されると、松代藩は尊王派が実権を掌握している。
文久3年(1863年)将軍徳川家茂の上洛に際し、松代藩が将軍留守中の横浜港警備を命じられると藩内で病弱の藩主幸民の隠居が議論されるようになる。幸民では対応が困難というのである。当初、養子候補者としてあげられていたのは、高鍋藩秋月家の秋月種樹と熊本藩細川家の細川護久であった。両人ともにその英明ぶりが評価されている。ただし、実際には宇和島藩伊達家から真田幸民が養子に迎えられた。
慶応2年(1866年)3月9日、養嗣子の真田幸民に家督を譲って隠居し、明治2年(1869年)10月18日に35歳で死去した。法号:文聡院殿。墓所:長野市松代の長国寺。
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