秦河勝
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秦河勝(はた の かわかつ)は、6世紀後半から7世紀半ばにかけて大和王権で活動した秦氏出身の豪族。生没年不詳。
秦氏は6世紀頃に朝鮮半島を経由して日本列島の倭国へ渡来した渡来人集団と言われ、そのルーツは秦の始皇帝ともいい、古代イスラエルという説もある。河勝は秦氏の族長的人物であったとされ、聖徳太子のブレーンとして活躍した。また、富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれ、その財力により平安京の造成、伊勢神宮の創建などに関わったという説もある。聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を賜り広隆寺を建てそれを安置した。
没したのは赤穂の坂越で、坂越浦に面して秦河勝を祭神とする大避神社が鎮座し、神域の生島には秦河勝の墓がある。
本拠地とした京都市右京区太秦(うずまさ)や、秦河勝の墓のある大阪府寝屋川市太秦にその名を残す。さらに右京区西京極には川勝寺とよばれる寺があり、近隣には「秦河勝終焉之地」の碑がある。この地域は明治の初めまで川勝寺村と呼ばれ、住民の多くは自らを河勝の子孫と認識していた。秦氏の後裔を称するものは甚だ多く、幕臣川勝氏も河勝の子孫を称した。また、現在楽家として知られる東儀家は河勝の子孫であるという。
[編集] 景教との関係
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰する一族であったとする説がある。秦一族が渡来する6世紀以前にすでに唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており(彼らはそれらを伝来した人々であるといわれ、唐の時代の景教の寺院は大秦寺と呼ばれていた)
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