簗田持助
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簗田持助
- 古河公方の人物。
- 関宿・水海城主の人物。
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[編集] 簗田持助 (古河公方)
簗田 持助(やなだ もちすけ、応永29年(1422年)-文明14年4月6日(1482年5月2日))は、古河公方足利成氏の家臣で下総国水海城(現在の茨城県古河市)城主。父は簗田満助、息子には簗田成助・簗田政助がいる。
[編集] 経歴
17歳の時に父が鎌倉公方である足利持氏に殉じて戦死する(永享の乱)。この時持助は父の命を受けて、甥に当たる持氏の4男永寿王丸(後の足利成氏)を鎌倉から脱出させると、父ゆかりの水海城へと退いて再起の期を待った。宝徳元年(1449年)、成氏が許されて鎌倉公方として鎌倉に入ると出仕する。その際、奏者として成氏の補佐役としての務めを果たすようになる。翌年には武蔵国品川の豪商として名前を残す鈴木道胤宛てに出された蔵役免除の御教書を成氏の名で発給している。その一方で、この年に持助が関東管領上杉氏の重臣長尾氏伝来の所領を成氏の命令を奉じて没収しようとしたため、長尾景仲・太田資清が成氏打倒を画策、難を逃れた成氏と長尾氏・太田氏の間で江ノ島で軍事衝突(江ノ島合戦)を引き起こす原因を作った。
だが、康正元年(1455年)に成氏が関東管領上杉氏や今川氏によって鎌倉を追われると、先陣を率いて自らの根拠地の近くである古河に成氏を避難させる。以後、成氏は「古河公方」を名乗る。以後、持助は関宿城を築いた息子・成助とともに周辺の反対派勢力や上杉氏との戦いや千葉氏の内紛などに参加して古河公方の勢力を関東の北部から東部にかけての一帯に広げることに成功した(享徳の乱)。
[編集] 簗田持助 (関宿・水海城主)
簗田 持助(やなだ もちすけ、天文18年8月15日(1549年9月6日) - 天正15年5月14日(1587年6月19日))は、古河公方足利義氏の家臣で下総国関宿城(現在の千葉県野田市)・同国水海城(現在の茨城県古河市)城主。前項の持助の玄孫にあたる。父は簗田晴助、子には簗田貞助(助利)がい る。
[編集] 経歴
永禄10年(1567年)に父・晴助の出家により家督を継ぐ。だが、この当時の晴助は北条氏が擁立した足利義氏を古河公方とは認めず、上杉謙信・佐竹義重らの支援を受けて、北条軍に対して徹底抗戦をしていた。このため、永禄8年、11年と関宿城を巡る激しい攻防戦が繰り広げられた。
だが、天正2年(1574年)、ついに関宿城は陥落して晴助親子は命は助けられたものの、支城である水海城に追放されてしまう。その後も佐竹氏の援助を受けて抵抗するものの、足利義氏の説得に応じて義氏の元に出仕して、筆頭重臣として忠節を尽くした。だが、それは古河公方に対する忠節であって、北条氏に仕える考えはなかった。義氏が天正10年(1582年)に死亡してその葬儀を執り行った直後に関宿城は親北条氏の簗田一族に奪われてしまい、再び北条氏とは対立するようになるのである。