粛親王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
粛親王(しゅくしんのう)は、は清の皇族。粛親王家は太祖の子、太宗皇太極(ホンタイジ)の長子豪格(ホーゲ)に始まり、清朝八大世襲家の筆頭といわれた満州鑲白旗の名家。
[編集] 粛親王善耆
粛親王善耆(しゅくしんのうぜんき、シャンチー、1866年 - 1922年)は、清の太祖努爾哈齊(ヌルハチ)から数えて10代目の子孫。姓は愛新覚羅。謚は忠。二等鎮国将軍を経て、粛親王の位を継ぎ、立憲君主制の実現を主張した。
1900年義和団事件に際し、御前大臣として光緒帝、西太后の西安逃避に随行。民政部尚書・民政大臣・理藩大臣を歴任した。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家であった。
1911年辛亥革命時、恭親王溥偉とともに強硬論をもって宣統帝の退位に反対した。
1912年2月初め、清朝皇帝の退位が避けられなくなると、川島浪速らの手引きによって日本の租借地旅順へ逃れた。清朝滅亡後は復辟をめざす清朝遺臣の宗社党の中心人物として、升允らとともに活動を行っている。
1912年の第1次満蒙独立運動では日本の参謀本部と、いわゆる大陸浪人の後押しで挙兵を準備をするも、日本政府の命令で計画は中止された。
1916年の第2次満蒙独立運動では袁世凱の帝政に反対する大隈内閣の方針のもと、男爵大倉喜八郎等の資金援助を受け、宣統帝復辟のための勤王軍を組織し、内蒙古の巴布札布(パブチャブ)と結んで挙兵準備をした。しかし袁世凱の急死により大隈内閣の方針が変更され、援助は打ち切られ、満蒙地方軍の反撃を受けて巴布札布が戦死するという事態に及んで、再び失敗した。
1922年に旅順で死去。溥儀から忠の謚を贈られる。北京郊外架松の粛親王家墓所に葬られた。
川島浪速と義兄弟の関係を結び、第十四王女顕シ[王偏に子]を川島の養女(日本名川島芳子)とした。また初代新京市長、満州映画協会理事長などをつとめた金壁東は善耆の第七王子である。妹善坤の夫喀喇沁王グンサンノルブは第1次満蒙独立運動に呼応し、日本から借款を受け挙兵準備をしている。