細川頼有
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細川 頼有(ほそかわ よりあり、正慶元年(1332年) - 元中8年/明徳2年(1391年))は、南北朝時代の武将。管領細川氏一族。備後守護・右馬頭を務めた。父は細川頼春。兄弟に細川頼之、細川頼元ほか。子に細川頼長(和泉半国細川家祖、熊本藩主家)。讃岐十郎。官位は掃部助。宮内少輔。
[編集] 経歴
足利幕府内の抗争から発展した観応の擾乱においては、父の頼春に従い将軍側に属して京都で戦っている。1352年の頼春の戦死後も、男山合戦では讃岐勢を率い、阿波勢を率いた兄の頼之とともに参加している。延文元年(1356年)3月、頼春の守護国であった備前守に任官し、阿波から伊予平定に発向した頼之を支援する。
頼之が管領に就任して幕政に関わると守護代として領国経営を任され、国人の被官化などに務め、南朝に属して攻勢した河野氏と戦う。康暦元年(1379年)、康暦の政変で頼之が失脚し、頼之追討令が下ると河野氏らが四国へ侵攻すると、育成した被官を結集させ、下国した頼之を迎えて抗戦する。嘉慶元年(1386年)に家督を譲る。頼之の赦免後、明徳元年(1390年)には将軍義満の命で頼之とともに山名時熙の追討に参加し、翌年には60歳で死去。
法号は通勝で、京都建仁寺の住職無涯仁浩を師として禅宗を信仰したという。無涯の没後に建仁寺を保護し、塔頭永源庵は頼有を祖とした和泉細川家八代の菩提寺となっている。また、後小松天皇から賜ったと伝わる最古の錦旗が現存しており、永青文庫に所蔵されている。
[編集] 関連項目
カテゴリ: 細川氏 | 南北朝時代の人物 (日本) | 1332年生 | 1391年没