脇坂安宅
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脇坂 安宅(わきさか やすおり、文化6年2月15日(1809年3月30日) - 明治7年(1874年)1月10日)は、江戸時代末期の政治家、播磨龍野藩主。老中。名は友吉、織部。官位は、はじめ従五位下・淡路守、ついで従四位下侍従・中務大輔。龍野藩先代安董の次男。9代目藩主となる。正室は毛利元義の娘。
龍野藩脇坂家は父・安董の功績もあり正式な譜代大名となっていたが、安宅も襲封後、寺社奉行、京都所司代、老中と順当に昇役した。京都所司代時代には京都御所炎上の大火があったが、その復旧に功績があり、孝明天皇より茶室を拝領する。現在龍野城公園の心字池上にある浮堂の茶室がそれである。また、所司代のかたわら龍野の名産のうすくち醤油の販路拡大を近畿圏で手広く行った。
安政4年(1857年)には老中に欠員が生じたため老中に上げられ、外国掛を担当。桜田門外の変で井伊直弼が死去すると、井伊時代に閣内にいた老中たちは順次幕閣を去り、安宅も文久元年(1861年)に辞任し、文久2年(1862年)に隠居した。
しかし、この年に安宅再勤の内命が出され隠居ながら再び老中になる。安宅は薩摩藩とは姻戚であり、それによる起用とも言われる。勅旨大原重徳が島津久光とともに江戸に下向した際、同職の板倉勝静とともに薩摩藩邸に出向き、応接し、一橋慶喜を将軍後見職に、松平慶永を大老にする旨を重徳に確約している。9月辞任、12月には老中在職時代の不手際により、蟄居を命じられる。
安宅の後は養子の安斐が継いだ。
[編集] 経歴
- 1809年(文化6年) 江戸の龍野藩邸で生誕。
- 1841年(天保12年) 藩主襲封
- 1845年(弘化2年) 寺社奉行
- 1851年(嘉永4年) 京都所司代
- 1857年(安政4年) 8月老中
- 1861年(文久元年) 11月に辞任
- 1862年(文久2年) 4月隠居、5月老中再勤、9月辞任。
- 1874年(明治7年) 死去。享年65。
[編集] 関連項目
- 赦律
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