荻谷信男
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荻谷 信男 | |
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1918年 - 1944年2月13日 | |
生誕 | 茨城県 |
死没地 | ニューブリテン島ラバウル |
忠誠 | 大日本帝国海軍 |
階級 | 海軍少尉 |
荻谷 信男(おぎや のぶお 1918年(大正7年)-1944年(昭和19年)2月13日)は、太平洋戦争期の大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。茨城県出身。存命時の階級は飛曹長。戦死後、少尉に任ぜられた。日本海軍のエースパイロット。知名度は低いが、日本陸海軍での短期間撃墜記録ペースでは、右に出るものはいない。名パイロットと称され、岩本徹三とともに幾度の死線を越えたが、昭和19年2月戦死した。
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[編集] 経歴
大正7年、茨城県の剣士の家系に生まれる。湊商業学校卒業後は剣士を志し、三段位まで進んだ。
昭和13年 海軍入隊。
昭和15年1月 48期操縦練習生を卒業、千歳空戦闘機隊所属。内南洋守備。
昭和18年3月 新編成の281空に所属、北千島へ進出、北方方面守備。25歳。
昭和18年11月 281空分遣隊として若手士官の春田少尉、ベテランの岩本飛曹長らとともに16機でラバウル進出、201空に編入される。
昭和18年11月17日 ブーゲンビル島トロキナへの進攻作戦から、熾烈なラバウル航空戦に突入。
昭和18年12月半ば 201空消耗により204空に編入される。[1] 。
昭和18年12月16日 公認の単独初撃墜が記録に残る[2] (ニューブリテン島南端のマーカス岬攻撃時)。
昭和19年1月20日 5機撃墜(F4Ux2, SBDx2, P-38x1)。
昭和19年1月26日 204空消耗、幹部要員後退し、搭乗員は253空に編入、引続き猛烈なラバウル航空戦継続。
昭和19年2月13日 ラバウル上空迎撃戦で自爆戦死。戦死時は飛曹長、最終階級は少尉。
戦死時までに公認された撃墜数は 24機。最後の出撃時、機体には32個の桜の撃墜マークがあったと伝えられる。
[編集] エピソード
13日で18機(公認)は日本最高のハイペースな撃墜記録とされる。ただし空戦生活が短かったため名前は部内でもほとんど知られていなかったと言われる。
12月のラバウル上空迎撃戦では艦爆編隊の後下方に潜り込んで撃ち上げるきわどい連続攻撃で艦爆を9機撃墜(非公認)したと伝えられた[3] 。
戦後20年たって岩本徹三の遺稿ノートの存在が知られ、日本海軍戦闘機隊のエース列伝で初めて紹介された。ひきつづき翌年に『零戦撃墜王』が出版され故人は広く知られるようになったといわれる。
[編集] 参考文献
- 伊沢保穂『航空情報別冊 日本海軍戦闘機隊 付・エース列伝』(酣燈社、1972年)初出資料
- 岩本徹三『零戦撃墜王 岩本徹三空戦記』(今日の話題社、1973年) ISBN なし
- ヘンリーサカイダ『日本海軍航空隊のエースたち 1937 - 1945』(オスプレイ、2000年)
- 岩本徹三『零戦撃墜王 空戦8年の記録』(光人社、2004年) ISBN 476982050X