菊池正士
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菊池 正士(きくち せいし、1902年8月25日 - 1974年11月12日)は、日本の原子物理学の第一人者として知られた男性物理学者である。
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[編集] 人物
数学者・菊池大麓の四男として東京都に生まれた。東京帝国大学理学部物理学科を卒業後理化学研究所に入った。1928年に電子線回折に関する実験に成功して世界的に認められ(この業績についてはルイ・ド・ブロイ及びド・ブロイ波を参照)、大阪帝国大学理学部教授に就任してからはサイクロトロンの建設に尽力した。その後東京大学原子力研究所長、日本原子力学会長、日本原子力研究所長、東京理科大学長等を歴任し、文化勲章を受章した。妙子夫人は元函館どっく社長・川田豊吉の娘で、正士・妙子夫妻は長男・士郎(原子物理学者)、長女・純子(藤岡知夫夫人)、次女・克子(野田玲二郎夫人)、三女・雅子(島野恵夫人)、四女・和子(高田英雅夫人)の1男4女をもうけた。なお、指揮者の藤岡幸夫は正士の孫に当たる(藤岡幸夫の母が正士の長女)。
菊池正士は戦後の日本を代表する物理学者であるといえるが、正士の父・大麓は箕作阮甫の孫なので正士(阮甫の曾孫)も箕作一族であるといえる。一方、戦前の日本を代表する物理学者・長岡半太郎は箕作麟祥(阮甫の孫で菊池大麓の従兄)の娘婿なので長岡もまた箕作一族なのである。従って長岡半太郎と菊池正士という戦前と戦後の日本を代表する2人の物理学者がともに箕作一族ということになり、長岡家や菊池家も箕作家同様学者一族として知られている。このことは箕作家や長岡家、菊池家が優秀家系であることを証明しているといえよう。
天文学者の小田稔は阪大菊池研究室出身だが、菊池の弟子・渡瀬譲に師事したため小田は菊池の孫弟子であるといえる。
[編集] 著書
[編集] 単著
- 『原子物理学概論』(岩波書店 岩波全書 1947年)
- 『物理学の概説』(冨山房 1947年)
- 『原子論より素粒子論へ』(丘書房 1948年)
- 『物質の構造』(創元社 1948年)
- 『粒子と波』(創元社 百花文庫 1948年)
- 『原子核物理学』(共立出版 1949年)
- 『現代自然科學講座12・原子核の光分解』(弘文社 1952年)
- 『原子核の世界 第二版』(岩波書店 岩波新書 1973年)
[編集] 共著
- 『原子核及び元素の人工転換』(岩波書店 1940年)