藤原げん子
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藤原嫄子(ふじわら の げんし(もとこ)、長和5年7月10日(1016年8月15日) - 長暦3年8月28日(1039年9月19日))は、一品式部卿敦康親王の長女。母は具平親王次女。後朱雀天皇中宮。初名は嫄子女王。
[編集] 略歴
寛仁2年(1018年)、実父敦康親王が薨去。母が関白藤原頼通の正室隆姫の妹であった縁で、娘のない頼通夫妻の養女となる。長元九年(1036年)、後朱雀天皇の女御代に。同10年(1037年)1月入内、女御の宣旨を受け正四位下に叙される。同年3月、中宮に冊立。天皇の寵愛を受け、祐子内親王・禖子内親王の二皇女をもうけるが、皇子出生を見る事なく産褥死した。享年24。