藤堂高嶷
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藤堂 高嶷(とうどう たかさと(たかさど)、延享3年7月4日(1746年8月20日) - 文化3年8月26日(1806年10月7日))は、伊勢国津藩の第9代藩主。久居藩の第7代藩主。津藩の第7代(久居藩の第5代)藩主である藤堂高朗(高豊)の長男。正室は中川久貞の娘。子に高兌、高邁、高秭、高允、木下利徳、娘(山内豊策室)、娘(遠藤胤統室)、娘(松平康乂室)、娘(一柳末周室)ら。官位は従五位下、大膳亮、従四位下、和泉守。
延享3年(1746年)7月4日生まれ。幼名は初次郎。本家の津藩では嗣子が無いことが多く、久居藩主が津藩主に転身することも少なくなかったが、この人物もはじめは久居藩主となって、藤堂高敦と名乗っていた。しかし明和7年(1770年)に本家を継いでいた弟・藤堂高悠が死去したため、高敦が藤堂高嶷と改名して本家を継ぐこととなったのである。久居藩主は弟の藤堂高朶が後を継いだ。
さて、この頃の津藩ではたびたび藩主が久居藩から津藩に転身するということが少なくなかったために藩政が不安定化し、財政も窮乏化していた。このため高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行なうこととなる。借金棒引きを主とした金融政策、殖産興業政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では均田制を導入しようとしたが、これに対してこれまで多くの土地を所有していた既得権者たちが猛反対し、寛政8年(1796年)に安濃津地割騒動と呼ばれる3万人規模の領民一揆が発生して失敗。金融政策においても借金を強権的に棒引きにしようとしたうえ、寺社修復のために領民が積み立てていた「祠堂金」を藩財政再建のために活用しようとしたため、領民や寺社勢力が高嶷に対して「神仏の敵」と非難するほどであった。このため、結果として高嶷の藩政改革は失敗に終わったのである。
長男は早くに死去していたため、文化3年(1806年)8月26日に高嶷が死去した後、家督は三男の藤堂高兌が継いだ。そしてこの高兌によって改革は推し進められていくことになったのである。 法号:祐信院清峻高節権大僧都。墓所:三重県津市寿町の寒松院。
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