西康省
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西康省(せいこう-しょう)は、1939年に設置され、1955年に廃止された中国の1省。
その歴史は
- 1905-1911 趙爾豊による建省準備期
- 1911-1939 川辺特別地区が置かれた時期
- 1939-1949 西康省が置かれた時期
- 1949-1955 西康省蔵族自治区時期
に大別される。
目次 |
[編集] 地理
名目上の領域は、チベットのカム地方の大部分を占め、北は青海地方(青海省)、甘粛省、東は四川省、南は雲南省、ビルマ、インド、西は西蔵に接した。
[編集] 歴史
第1期
- 1905年、四川総督の趙爾豊は四川軍を率いてチベットに侵攻、雍正のチベット分割以来、名目上、四川省に帰属してきたカム地方東部の諸侯や、1642年に成立しラサに本拠をおいてチベットの中央部を統治するガンデンポタン軍などを次々と破り、1910年、ラサに入城した。趙はガンデンポタンや、その他のチベット人諸侯の小政権をすべて取り潰し、ガリ地方からウーツァン地方にかけての地方に西蔵省を、カム地方(雍正のチベット分割以来、西蔵、四川、雲南に三分)に西康省を設置し、従来、チベット人自身の統治に委ねられていたチベットの国土を中国に併合することを目指した。しかし趙が統治機構の整備に取り組み始めてほどなく、辛亥革命が勃発、趙は成都に戻ったところで革命派に殺害され、趙が配置した行政機関や駐屯軍は、ガンデンポタンからの反撃や、地元勢力の蜂起により、次第に崩壊していった。
第2期
- チベットの統一と独立を目指すガンデンポタンはこの省の全域を失地回復の標的とし、ディチュ河西岸の地を奪還(1905年まではガンデンポタンの統治下にあった)し、さらに東岸への進出を狙った。また、ディチュ河東岸の地も、中国の支配を嫌うカム諸侯の抵抗により、かろうじて県城と主要街道を押さえるのみの有様となり、省として発足する条件が整わぬため、ながらく「特別地区」という位置づけに甘んじた。1934年より1935年にかけ、長征によりこの地を通過中の労農紅軍第四軍の支援によりチベット人人民共和国が設立されたが、紅軍の撤退とともに、ほどなく解体した。
第3期
第4期
- 中国人民政府は、建国時までに省主席の劉文輝の投降を受け入れることによってディチュ河の東岸を、1950年には、いわゆる「西蔵和平解放」の一環としてディチュ河西岸を制圧したが、新たに設けた西康省蔵族自治区の領域は、従来から西康省が掌握していたディチュ河(金沙江)東岸に限定、従来ガンデンポタンが実効支配を確立していたディチュ河(金沙江)西岸は、中国政府に忠実なチベット人たちを組織してもうけた「チャムド解放委員会」のもと、ひき続き西蔵に帰属させ、西康省から正式に切り離した。
- 1955年、西康省蔵族自治区は廃止され、カンゼ蔵族自治州に改められ、四川省に吸収合併された。
[編集] 行政長官
- 川辺鎮撫使
- 尹昌衡 (1912.8.26-1913.6.13)
- 川辺経略使
- 尹昌衡 (1913.6.13-1913.7.7)
- 川辺都督
- 尹昌衡 (1913.7.7-1914.1.13)
- 川辺鎮守使
- 張毅(1914.1.13任)
- 劉鋭恒(1915.4.30署)
- 殷承瓛(1916.8.13任)
- 陳遐齢(1918.2.2任-1925.2.10)
- 西康屯墾使、西康民政長
- 劉成勛(1925.2.7任)
- 川康綏撫委員会 委員長
- 劉湘(1926.11.27任)
- 西康特別区政務委員 主席
- 賀守賢(1928.3.10任)
- 西康省建省委員会 委員長
- 劉文輝 (1934.12.29-1938.12.17)
- 西康省 主席
- 劉文輝(1939.1.1任)
- 賀国光(1949.12.6任)
- 西康省蔵族自治区人民政府 主席
- サンギェイェシェ(桑結悦西、天宝) (1950.11.7)
[編集] 行政区画
西康省は、名目的には以下の諸県を管轄するが、この領域全体を掌握した期間は存在しない。またチベット側がチャムドに設けたドメー・チーキャプ(アムド・カム総督府)の管轄領域の南部を占める。 康定(タルツェド)・濾定・雅江・理化・巴安(バー)・丹巴・道孚(タウ)・鑪霍・甘孜(カンゼ)・瞻化・九龍・稲城・徳栄・塩井・定郷・武城・徳格(デルゲ)・同普・昌都(チャムド)・恩達・石渠(セルシュル)・鄧柯・白玉(パンユル)・貢県・寧静・察雅(ダクヤプ)・察隅(ザユル)・科麦・碩督・嘉黎・太昭
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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