証明責任
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証明責任(しょうめいせきにん)とは、裁判で事実の有無が確定できない場合(真偽不明、non liquet)に、その事実の有無を擬制して法律効果の発生・不発生を判断することにより被る、当事者一方の不利益のことをいう。挙証責任、立証責任ということもある。民事訴訟では「証明責任」の用語が、刑事訴訟では「挙証責任」の用語が、一般的に使われることが多い。
なお、上記の法律上の用法から転じて、一般的な議論等において、どちらが対象となる事実について証拠を挙げる、または証明を行う責任を負うか、という文脈で用いられることがある。
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[編集] 概要
裁判で当事者が立証活動を尽くしても、争点になった事実があるのかないのか裁判官が確信できない場合がある。その場合でも裁判所は裁判を拒否することはできず、結論を出さなければならない。そのため、真偽不明であるにもかかわらず、争点となった事実の有無を擬制して裁判をする必要性が生じ、それにより当事者の一方が不利益を被る。
つまり、証明責任(挙証責任)は、どちらが現実に証明活動を行うかという問題とは基本的に関係はない。あくまでも、現実の証明活動は当事者双方が行うものであり、証明責任を負う方のみが証明活動をするわけではないので、この概念は、証明活動が終了した時点で真偽不明の場合に問題となるものであることに注意が必要である。したがって、証明責任をどちらが負うかは最初から決まっており、裁判の途中で変わることはない。
[編集] 日本の民事訴訟の場合
[編集] 一般論
日本の民事訴訟では、一般的に法律要件分類説という考え方で証明責任の分配規準を説明している。この考え方は、事実が真偽不明となった場合には、その事実を要件事実とする法条は適用されないという理解(法規不適用説)を前提にしており、そこから、自己に有利な法律効果の発生を求める者は、その法条の要件事実について証明責任を負うと考える。証拠との接近性などを考慮していないという批判や権利消滅規定と権利障害規定は区別できないとの批判もあるが、なお一般的に支持されている。以下、「XがYに対して商品を売ったため、Yに対して売買代金を請求する場合」を具体例として、法律要件分類説を説明する。
- 権利根拠規定
- 権利の発生を定める規定の要件事実は、その権利を主張する者が証明責任を負う。上記の例の場合、売買代金請求権は、売買契約に基づいて発生する(民法555条)から、売買契約を締結した事実は、売買代金請求権を主張するXがその存在について証明責任を負う。
- 権利消滅規定
- 一度発生した権利の消滅を定める規定の要件事実は、権利を否認する者が証明責任を負う。例えば、上記の例で、売買契約の締結を前提としつつ、Yが既に代金は支払済みであるとして主張して争う場合には、Yの代金の支払いにより一旦発生したXの売買代金請求権は消滅する(民法474条以下)ことから、代金が支払済みである事実は、売買代金請求権を否認するYがその存在について証明責任を負う。
- 権利障害規定
- 権利根拠規定に基づく法律効果の発生の障害を定める規定の要件事実は、その法律効果の発生を争う側に証明責任がある。言うなれば、発生したかに見える権利が実際には発生していないなどの主張である。上記の例の場合、売買契約に要素の錯誤(民法95条)があるために売買契約は無効になるか否かが問題となる場合は、契約の効力を争うYに、要素の錯誤があったことについて証明責任を負う。
- 但書がある場合
- 条文が本文と但書の組み合わせで構成されている場合がある。そのうち、但書が本文の適用を除外する形で規定されている場合には、本文に掲げられた事実の効果を否認する方に但書に掲げられた事実の証明責任がある。上記の例の場合、売買契約の要素の錯誤は、要素の錯誤の存在を主張する方(Y)が証明責任を負うが、民法95条は本文と但書から構成されており、但書によると意思表示の表意者に重過失がある場合は錯誤による主張が認められず、95条本文の適用が排除される。したがって、表意者に重過失があることは、錯誤による無効(民法95条本文)を争う方であるXに証明責任がある。
[編集] 証明責任の転換
実体法の一般規定によって一方の当事者が特定の事実について証明責任を負う場合に、特別規定により反対事実について証明責任を負わせることをいう。
不法行為に基づく損害賠償請求の場合を例にすると、加害者の過失に該当する事実は、民法709条の解釈上、権利根拠規定の要件事実として債権者である被害者側が証明責任を負うのが原則である。しかし、自動車による人身事故に起因する損害賠償請求の場合は、民法709条の特別規定として自動車損害賠償保障法3条但書が適用され、債務者である加害者が自己に過失がなかったことについて証明責任を負う。
なお、裁判の途中で当事者の一方が証拠を提出したことにより裁判官が事実の存否について確信を抱くようになった場合には、他方当事者としては、それを放置するわけには行かないので反対の証拠を出す必要が出てくる。この現象に対して証明責任が転換されたと表現される場合もあるが、正しくない使用法である。
[編集] 日本の刑事訴訟の場合
[編集] 原則
刑事訴訟では、「疑わしきは被告人の利益に」の原則が妥当する。つまり、犯罪事実については原則として訴追側(検察官)に挙証責任があるとされ、合理的な疑いを入れないまでに立証されない場合は被告人は無罪となる(無罪の推定)。日本の法令にはこの点に関する明文の規定はないが、法定手続の保障について規定した日本国憲法第31条が無罪の推定原則を要求すると解されること、刑事訴訟法336条が「被告事件について犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡をしなければならない」と規定していることから、犯罪事実については検察官が挙証責任を負うことになるとされている。
また、犯罪事実のほか、刑事責任の存在や範囲に直接影響する事実(行為の違法性・有責性を基礎付ける事実、処罰条件、刑の加重減免事由)、量刑に関する事実についても、検察官に挙証責任がある。
違法性阻却事由や責任阻却事由については、それが存在することについて被告人側に挙証責任があるとする見解もあるが、通説は、それが存在しないことについて検察官側に挙証責任があるとしている。もっとも、現実問題としては、阻却事由の存在を疑わせるような証拠が法廷に提出されない限り、阻却事由の存否に関して立証活動がされるわけではない。
以上あわせて極端に検察官に証明責任を負わせる配分となっているが、刑事訴訟においては、検察官には、被告人または弁護人には認められない捜査をすることが認められていることから、実際の妥当性が保たれている。
[編集] 例外
個別的に被告人側が例外的に挙証責任を負うとされる事項がある。この実質的な理由は、検察官にとっての立証困難性にあるが、犯罪事実の成否にかかわる事実である以上、単にそれだけで挙証責任の転換が許容されるわけではない。被告人側への転換が許されるためには、被告人に挙証責任を負わせる事実が、検察官に挙証責任がある他の事実から合理的に推認される事情があること、被告人が挙証責任を負うとされる部分を除去して考えても、なお犯罪として相当の可罰性が認められることなどの、特別の事情が必要となる。日本の刑法や特別刑法の規定では、以下の点が例として挙げられる。
- 同時傷害の特例
- 複数の者が暴行を加えて人を傷害させた場合、複数の者が共同正犯の関係にない場合は、傷害の結果が誰の暴行から生じたかについては本来は検察官に挙証責任があるはずである。しかし、刑法207条はこの点について同時傷害の特例を設け、被告人は傷害が自己の暴行によるものではないことについて挙証責任を負い、自己の暴行によるものではないことが立証されないと傷害罪の責任を負う。
- 名誉毀損罪における摘示事実の真実性
- 被告人の行為が名誉毀損罪(刑法230条1項)の構成要件に該当する場合であっても、それが公共の利害に関するもので、かつ公益目的とされる場合は、被告人の摘示事実が真実であれば、名誉毀損罪として処罰されない(刑法230条の2第1項)。この場合の摘示事実が真実であることについては、被告人側に挙証責任がある。
- 爆発物取締罰則における爆発物製造等の目的
- 治安を妨げ又は人の身体財産を害する目的で爆発物を製造・輸入・所持・注文した場合は、3年以上10年以下の懲役又は禁錮刑に処せられる(爆発物取締罰則3条)が、これらの目的がないことが証明できなかった場合は、6月以上5年以下の懲役刑となる(6条)。つまり、3条の犯罪の成立に関しては、目的の存在につき検察官に挙証責任があるのに対し、6条の犯罪の成立に関しては、目的の不存在につき被告人に挙証責任がある。簡単に言うと、目的の存在が証明されたときは3条で処罰され、目的の不存在が証明されたときは無罪となり、目的が存在するか否か真偽不明の場合は6条で処罰されることになるという趣旨である。