護法山顕正寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
護法山顕正寺(ごほうざんけんしょうじ)は、埼玉県和光市下新倉二九六-三に以前存在した、顕正会系の仏教寺院。和光市の住宅街にあって、普通の民家に看板を掛けただけの顕正寺の外観は、近所では「謎の家」と不気味がられていた。1978年3月建立-2003年5月破却。当初は「宗教法人顕正寺顕正新聞社」の名で法人格を有し、顕正会(旧・妙信講)を信徒団体として認める唯一の寺院であった。顕正会の側でも、顕正寺を「御遺命守護の戦いの象徴」と賛嘆してきた。しかしその後、1996年に宗教法人顕正寺顕正新聞社は宗教法人顕正会へと移行し、以後、顕正寺は名実共に顕正会の単なる一付属施設としての扱いを受けることになった。2003年、顕正会本部の方針転換にもとづき、顕正寺は廃止された。以下、建立に至る経緯から消滅までの詳細を時系列に即して述べる。
目次 |
[編集] 松本日仁の1億2500万円
顕正寺の歴史において「開山」に相当する松本日仁(まつもとにちじん)は、日蓮正宗妙縁寺の住職として、法主に次ぐ能化(のうけ)の位にある高僧であったが、正本堂の定義をめぐる論争で妙信講の浅井甚兵衛・浅井昭衛父子らと共に国立戒壇論堅持を主張した挙句、妙信講によるテロ事件発生に際して加担の責任を問われ、1974年12月25日に擯斥(ひんせき。僧籍を剥奪した上で宗外へ追放すること)となった人物である。松本は、いったんは妙信講の後押しを受けて擯斥処分を不服とする訴訟を起こしたものの、その訴訟の最中である1977年に至って、老衰で緊急入院し危篤状態となった(当時86歳)。妙信講顧問弁護士が委任権限を行使して”松本が妙縁寺に遺してきた銀行預金1億2500万円を、日蓮正宗側は、松本に引き渡すべく所定の口座に振り込む”との和解条件を受け入れ、この訴訟は取り下げられた。しかし妙信講顧問弁護士が指定してきた口座は、実際には「顕正寺建立準備資金」なる名義の銀行口座であり、松本の死後、この1億2500万円が、顕正寺建設の資金等として流用された。松本の遺族らは抗議したが、すでに後の祭りであった。
なお、浅井昭衛は後年、”松本が臨終間際に新聞紙に包んで金子を自分に手渡した”などと発言している(顕正新聞 平成十一年四月二十五日号)が、これは、銀行振込によって宗門から妙信講の手に渡ったという1億2500万円とは別の話で、数百万円だといい、当時赤字であった顕正新聞社の赤字補填に使用されたとのことである。
[編集] 八木直道の懺悔
松本と同じく妙信講と行動を共にした八木直道(やぎじきどう)元・要行寺住職(静岡県富士宮市)も、日蓮宗富士派時代の1910年に出家得度した宗内最古参の僧侶の一人であったが、1974年10月15日に擯斥処分となった。もっとも彼の場合は、創価学会のありかたに対する憂慮から正本堂に対し疑問の声をあげたのであって、必ずしも国立戒壇論じたいには固執していなかった。このことが後に、彼に対する浅井の執拗な恫喝を招く原因となった。顕正寺の落成後、彼は妙信講を頼り、顕正寺住職に就任した。しかし、浅井昭衛にとってみれば、「僧侶」とは単に妙信講が世間から新宗教呼ばわりされないために儀式や葬儀・法要を執行してさえくれればいいだけの存在であって、寺院住職を自らの指導教師として仰ぐなどという心情は全くなかった。結局、八木は間もなく顕正寺を退出した。なお、1985年には懺悔して日蓮正宗に復帰している。
その後、養子にもらった八木日照(大石寺主任理事、当時は能化になる前)が住職をしている大石寺妙泉坊で隠居、1995年9月、98歳で逝去。
[編集] 村松禎道の登場
八木師が退出した後の1980年、日蓮正宗を所化(しょけ)の位で退転した元妙縁寺在勤僧侶・村松禎道(むらまつていどう)が迎え入れられ、住職代行に就任した。さらに1984年には、住職の称号も浅井昭衛によって与えられた。
村松は当初、浅井昭衛の紹介で見合い結婚し、顕正会御大会式などの重要法要でたびたび導師を務め、また唯一の葬儀・法要執行要員として全国を飛び回るなど、会になくてはならない存在となったかに見えた。
しかし年々、浅井の思想がより過激な僧侶不要論へと傾くにつれて影が薄くなっていき、葬儀・法要の執行は、徐々に在家幹部に取って代わられていった。そして、冨士大石寺顕正会典礼院が建設された後も村松は顕正会本部職員の肩書きを有していたが、平成17年11月末日を以て、突然解雇された。その後の動向は不明である。
[編集] 顕正寺御供養の約束履行されず
浅井昭衛氏は従来より、”御遺命守護完結のその日には、顕正寺を時の日蓮正宗の法主に御供養申し上げる”などと公言していた。しかし1998年、浅井は、日蓮正宗総本山大石寺における正本堂から奉安殿への本門戒壇大御本尊遷座に衝撃を受けて、顕正会内部で「御遺命守護完結奉告式」なる祝典を独自に開いたにも関わらず、肝心の顕正寺御供養の約束の方は、一向に実行しようとしなかった。 これは「日蓮正宗現管長、阿部日顕管長が、今まで犯した罪に対して一分の改悔もなく、未だに国立戒壇を怨嫉の心を持ち続けているゆえ」となっている。
[編集] 顕正寺の消滅(発展的な終焉)
2002年、浅井は「顕正寺を改築する」と発表、翌2003年、改築の成った建物を「冨士大石寺顕正会典礼院」との名称で発表し、それは納骨堂と葬儀場の施設で、管理は顕正会の在家幹部が行うことも明らかにされた。またこの時の浅井の演説においては、”今後、側面からスキを窺わんとする「魔のたばかり」が盛んになると思われるので、顕正会と一体ということを名称の上に表したい”から、顕正会典礼院を新たに建てた、とい発言されている。
[編集] 顕正寺の寄付計画(自動)消滅
そもそも「宗教法人顕正寺」の寺院規則には「この寺院は御遺命守護完結のその時に宗門に寄付する」(趣旨)と言う条項があった。しかしこの顕正寺の寄付条項は、『宗教法人顕正寺』から『宗教法人顕正会』への「名称変更」に伴い消滅した。しかしながら、その後顕正会が「御遺命守護完結奉告式」が挙行されるにおよび、内外から「顕正寺の寄付計画」を何時実行するのかと言う物議が醸し出された。しかし、この顕正寺の消滅に伴い、実質的にこの計画を消滅させることが出来た。
これが隠された「顕正寺消滅」の真相と言われている。