谷周平
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谷 周平(たに しゅうへい 嘉永元年(1848年)- 明治三十四年(1901年)12月2日)。備中松山藩出身。新選組平隊士。別称として谷昌武、正武などがある。
新選組隊士谷三十郎と谷万太郎の実弟。 兄と共に新選組に加盟した後、近藤勇の養子として近藤周平を名乗っている。 池田屋事件の際には、養父勇に従って参加するが、兄三十郎の死後、養子縁組を解消して谷姓に復姓。 のち新選組にあって監察職を務めている。
鳥羽伏見の戦いの敗走の後、大坂城へ撤退した新選組は海路江戸へ戻るが、その際に隊を脱走。以後の消息は不明である。
明治後、いったん出身地の備中松山に戻ったが、明治五年頃には再度故郷を後にした。 播田ツルという年上の女性と結婚するも、明治二十年に離婚。山陽鉄道神戸事務所の職員として働き、五十三歳で病死した。 なお、正武には政栄という女子がいたという。