賀陽郡
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賀陽郡(かやぐん・かようぐん・かやのこおり)は岡山県および備中国にかつて存在した郡である
- 郡役所所在地(郡区町村編制法):八田部村(後の総社村)→高松村(岡山市高松地区)→総社村(総社市総社地区周辺)
- 郡衙推定地(律令制):服部郷(総社市東部)もしくは八部郷(総社市中央北部)
- 備中国国府所在地とされる郡である
[編集] 沿革
- 明治11年7月22日 郡区町村編制法施行:郡役所は八部村、後に高松村を経て総社村(旧・八部村)になる
- 明治22年6月1日 町村制施行(18村)
- 明治29年2月26日
- 総社村が町制施行して総社町となった。
- 足守村が町制施行して足守町となった。
- 明治33年4月1日 下道郡と合併して吉備郡となった。
[編集] 古代~江戸時代
- 古来、吉備国および備中国の中心地として古くより栄えた地域である。
- 古くは、「賀」は加・蚊・可・家・香などが、「陽」は夜・矢・屋・耶・谷・家・野などの字が当てられており、かなり多様な表記がされていたようである。さらには一一字で「栢」「萱」「茅」といったものも見られる。読み方は全て「かや」と読む。なかでも、「賀夜」「賀陽」の2種類が多く使われていたようである。「賀陽」に関しては「かよう」という読みもされていた。
- 郡区町村編制法時に「賀陽」とかいて「かや」と読むように統一された。のちに「かよう」と読むように変わった。
- 備中国の国府と伝えられている地が総社市服部地区西部~同総社地区東部にかけてあり、字名も「国府」「御所」他などがあり、総社も現存している。そのため郡衙もこの辺りにあったといわれている。栢寺廃寺跡や古郡神社・沼田神社など、関連される遺跡・史跡もある。
- 郡衙に関しては、総社市総社地区・総社宮周辺や大字総社などの説もある。
- かつては上房郡(真庭市旧北房町地区と高梁市中井地区除く)も賀陽郡の一部だったが、割譲されて上房郡となった。
- 昔は高梁川が総社市井尻野あたりで東・南に二手に分かれており、東側(現在の総社市街地を貫流していた)が本流だった。この高梁川とその本流で、賀陽郡と窪屋郡・都宇郡・下道郡との境界線が引かれていた。