趙衰
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趙衰(ちょうし、? - 紀元前622年)は、中国春秋時代の晋の政治家。姓は贏、氏は趙、諱は衰、諡は成。趙成子とも呼ばれる。
驪姫の策謀を避けて出奔した晋の重耳(文公)に従い、19年に渡って諸国を放浪した。文公とは遠縁にあたる。
放浪中、文公が楚の成王に招かれたとき、成王は文公の器量を見込んで周王に対する礼を以てもてなしたが、文公は典礼にはよく通じていなかった。このとき趙衰が側に付き添い、礼儀作法について細かく指導したので、文公は恥をかくことがなかった。
帰国後も文公の覇業をたすけ、晋が周王室より原の地を賜った際には原の伯に任じられた。子の盾は晋の宰相となり、のち独立する趙の礎を築いた。
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