遠藤直経
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
遠藤 直経(えんどう なおつね、享禄4年(1531年) - 元亀元年6月28日(1570年8月9日))は戦国時代の武将。近江国の戦国大名・浅井氏の家臣。通称は喜右衛門尉。父は遠藤主膳。子に遠藤孫作、遠藤喜三郎。
直経の遠藤氏の祖は鎌倉武士であったといわれ、鎌倉時代に近江に所領を得、下向してきたとされている。代々須川山一帯をおさめ須川城を居とした。赤尾氏などと同様、浅井氏が京極氏の被官であった頃以来の譜代の家臣である。小谷城下の清水谷に居館を持つことを許されており、直経自身は子に居城を任せ館に在番していた。直経は浅井長政の守り役的存在で長政が幼い頃から長政の相談役を務めてきた。そのため長政からの信頼がとりわけ厚く、長政が六角氏攻めを決意するに当たり真っ先に相談をしたのが直経と浅井玄蕃だった。
直経は伊賀の忍者とも関係があったといわれ、浅井家の諜報活動をになってきたとされる。何故近江の甲賀ではなく伊賀なのかというと、甲賀は六角氏の支配下にあったため六角氏との関係が深く、甲賀の忍者衆と関係をもつことが出来なかったからである。そのため近江から離れた伊賀衆と関係をもっていたとされる。
直経は早くから織田信長の底知れぬ才能を見抜き、1568年、まだ浅井家と織田家が同盟関係にあったとき、近江佐和山城を訪れた信長の接待役を命じられていた直経は信長暗殺計画を長政に進言した。しかし、長政は信義に反するとしてそれを受け入れず直経も主君の命に背くわけにはいかず、結局暗殺計画は未遂に終わる。
朝倉氏と織田氏との関係が悪化すると朝倉との旧縁を重んじるべきか、織田との婚姻関係を重んじるべきかの決断を迫られていた際、直経は織田側につくべきであると強硬に主張した。これには朝倉家当主の朝倉義景の優柔不断な対応に直経が愛想を尽かしていたことに加え、浅井側の重臣として信長と接するうちに信長の内政外交の手腕を高く評価するようになったという事情があった。結果的に長政の父・久政らの朝倉側につくべきであるとする意見を長政がとったことから、またも直経の進言はいれられなかった。
1570年の姉川の戦いで浅井大敗が濃厚となった際、直経は味方武将三田村某の首級を掲げて織田の武将に成りすまし、信長の暗殺を謀った。しかし信長本陣の手前数十メートルのところで竹中重治(竹中半兵衛)の弟・竹中重矩に見抜かれ、逆に捕らえられ斬首されてしまう。
竹中兄弟は以前斉藤家を離れた後、客人として浅井家中にあったことから浅井家の重臣である直経の風貌を知っていたからと思われる。