長恨歌
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長恨歌(ちょうごんか)は、中国・唐の時代、白居易によって作られた長編の漢詩である。唐代の玄宗皇帝と楊貴妃のエピソードを歌い、平安時代以降の日本文学にも多大な影響を与えた。806年(元和元年)、白居易が盩厔県(陝西省周至県)尉であった時の作。七言古詩(120句)。
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[編集] 詩の内容
漢の王は長年美女を求めてきたが満足しえず、ついに楊家の娘を手に入れた。それ以来、王は彼女にのめりこんで政治を忘れたばかりでなく、その縁者を次々と高位に取り上げる。
その有様に反乱(安禄山の乱)が起き、王は宮殿を逃げ出す。しかし楊貴妃をよく思わない兵は動かず、とうとう王は兵をなだめるために楊貴妃殺害を許可する羽目になる。
反乱が治まると王は都に戻ったが、楊貴妃を懐かしく思い出すばかりでうつうつとして楽しまない。道士が術を使って楊貴妃の魂を捜し求め、苦労の末、ようやく仙界にて、今は太真と名乗る彼女を見つけ出す。
太真は道士に、玄宗との思い出の品とメッセージをことづける。それは「天にあっては比翼の鳥のように」「地にあっては連理の枝のように」、かつて永遠の愛を誓い合った思い出の言葉だった。
[編集] 史実との相違
- 時代が唐代から漢代に変えられている。長恨歌が発表されたのは安禄山の乱が終結してまもなくのことであり、現政権に遠慮してのことであろう。
- 楊貴妃はそもそもは、玄宗皇帝の子息の一人の妃であった。さすがに息子から妻を奪うのをはばかり、いったん道士となった後で玄宗の後宮に迎え入れられている。太真は楊貴妃の道士時代の名。
[編集] 楊貴妃の美
- 「温泉水滑洗凝脂」「雪膚」・・・温泉の水がなめらかに凝脂を洗う、と表現されるように、むっちりと白い肌を持っていた。
- 「雲鬢花顏」「花貌」「芙蓉如面柳如眉」・・・ふんわりとした髪の生え際、芙蓉の花のような顔だち、柳のようなほっそりとした眉、など顔のパーツも重要であったようだ。
- 「侍兒扶起嬌無力」「金歩搖」・・・侍女に助け起こされてもぐったり、歩くに連れてかんざしがしゃらしゃらと揺れる、といった感じで、北宋ごろから流行しだした纏足という習慣にも見られるように、いかにもなよなよとした頼りなげな様子が女性らしいしぐさとして愛されたらしい。
[編集] 日本文学への影響
- 「源氏物語」桐壺の巻・・・桐壺帝と桐壺更衣の悲恋の描写には、長恨歌をほうふつとさせる部分がたくさんある。当時の貴族層の誰もが知る長恨歌のエピソードを、紫式部はうまく平安王朝風に置き換えて物語に取り入れた。
- 「枕草子」・・・清少納言は「梨の花の美は、中国でも絶賛されていた」と考えていた。おそらく長恨歌の中の「梨花一枝春帶雨」の表現を踏まえてのことと思われる。しかし実は梨の花の美をたたえた表現は、中国の詩でも他にはあまり見られないのである。
[編集] 関連項目
- Wikisource - 長恨歌(中文版)
- 霓裳羽衣の曲
- 漢詩
- 中国文学
- 詩人一覧