長谷川秀一
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長谷川 秀一(はせがわ ひでかず、? - 文禄3年(1594年))は、戦国時代の武将。名は貞長(さだなが)とも。官位は従五位下。侍従。
尾張国出身で、早くから織田信長の側近として仕えた。1579年に安土宗論が起こったときは、その事務を司っている。信長から寵愛されて「長谷川竹」という呼び名で信長には呼ばれていた。1582年の本能寺の変では信長の命令で徳川家康の堺接待役を務めていたため、命拾いしている。信長の死後は羽柴秀吉に仕えて1584年、小牧・長久手の戦いに参加したが、徳川軍の前に敗れた。
その後、越前東郷の領主となる。翌年には紀伊雑賀攻めで武功を挙げた。1592年から始まった文禄の役では兵5000人を率いて渡海し、1593年には細川忠興と共に晋州城攻めで武功を挙げた。しかし1594年2月、朝鮮の陣中にて病に倒れて死去した。