闘穀於菟
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闘穀於菟(とう こくおと/とう どうおと、生没年不詳)中国春秋時代の楚の宰相(令尹)。字は子文。闘伯比の子。清廉で知られ、楚屈指の賢相の一人といわれる。以下、子文の名で記す。
闘伯比は鄖公の娘と密通して子文が生れた。鄖公の娘は子文を雲夢の沢の中に捨てたが、虎が乳を飲ませて育てた。狩りに出た鄖公がこれを見つけ、娘に子文を育てることを許した。 子文は令尹に抜擢された際に、私財を投じて楚の財政を救った。楚の成王は貧乏になって食いつなげなくなった子文のために俸禄を増やそうとしたが、成王が俸禄を出すたびに子文は必ず下野し、成王がやめると戻ってきたので、遂には成王も諦めたという。代わりに子文が登朝する度に肉の干物一束と朝飯一籠を贈るようにし、この習慣はのちに楚の令尹に受け継がれていくようになった。
弟の子良に子の子越が生れた際に「必ずこの子を殺しなさい。姿は熊や虎のようで、声は山犬や狼のようである。きっと我々若敖氏に害をなすだろう」と言ったが子良はこれを聞き入れなかった。 臨終の際に一族を集め「椒(子越)が政治を執るようになったら楚を離れて難を逃れるようにせよ」と遺言し、泣きながら「若敖氏の霊魂は餓えることになるだろう」と言って若敖氏の滅亡を予言した。
子文の死後、果たして子越は子文の予言した通りに春秋五覇の一人にも数えられる名君荘王に叛き、若敖氏は全滅した。しかし、荘王は「あの子文の家系が途絶えたとあっては、私は人に善行を勧めることができなくなる」と言って、子越の乱の際に国外にいて乱に加担しなかった一族の克黄に家の跡を継がせた。
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