阿武松緑之助
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阿武松 緑之助(おうのまつ みどりのすけ、1794年(寛政6年)? - 1852年1月20日(嘉永4年12月29日))は、大相撲の力士で第6代横綱。
講談などでは、あまりの大食漢でそのわりに出世が遅いので、一度破門となり、故郷にも帰れないので自殺を決意、この世の名残にと入った飯屋でその食いっぷりを主人から見込まれて、武隈部屋に入門―ということになっているが、これは創作。師匠の代がわりにより一時所属が粂川や雷になったことや、お抱えが盛岡藩から萩藩に変わったことなどが、誤解されてひろまったものだろう。
よく言えば慎重、悪く言えば消極的な取り口で、人気の面ではもうひとつだった。作戦的な立ち合いが多く、「待った待ったと、阿武松でもあるめぇし」と江戸の流行言葉にもされた。
小野川喜三郎以来60余年の空位を埋めて文政11年(1828年)2月に吉田司家吉田追風から横綱免許、稲妻雷五郎と文政から天保にかけての一時代を担った。
幕内通算成績は26場所142勝31敗24分8預1無勝負37休。優勝相当成績5回。
現在阿武松は日本相撲協会の年寄名跡のひとつになっており、一種の止め名。
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カテゴリ: 江戸時代の人物 | 石川県出身の大相撲力士 | 1794年生 | 1852年没