隠れキリシタン
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隠れキリシタン(かくれキリシタン)は、徳川家光によるキリシタン禁止令の後、
- 仏教を信奉するように装いながら、キリスト教信仰を保った信者(潜伏キリシタン)。
- 明治6年、禁教令が解かれ、潜伏する必要がなくなっても、江戸時代の秘教形態を守り、カトリックに戻らない信仰者の群(カクレキリシタン)。
上記両者を特に区別せず指す俗称である。
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[編集] 潜伏キリシタン
禁教の時代において潜伏した信徒達は、観音像を聖母マリアに見立て(それらの観音像は今日「マリア観音像」と呼ばれる)、表向きは仏教徒として振舞いながら、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱えた。また、メダイやロザリオ、聖像聖画、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵し、生まれる子に洗礼を授けるなどして信仰を守った。
幕末の開国後の1864年、長崎の大浦天主堂を浦上(現・長崎市浦上)在住の信者が訪ねてきたこと(「信徒発見」と呼ばれる)から、その存在が知られるようになった。キリスト教はいまだ禁教であったため、存在を再認識された信者は投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった(浦上四番崩れ)。このような状態は諸外国の大非難によって政府がキリスト教を事実上解禁する1873年(明治6年)まで続いた。
潜伏キリシタンの多くは、再宣教の為に来日したパリ外国宣教会によって、祖先の信じたカトリック教会の信仰に復帰した。そのため潜伏キリシタンは定義上現存しない。
[編集] カクレキリシタン(離れキリシタン)
長崎県などには、江戸時代潜伏中に信仰理解が大きく変化し、もはやキリスト教の原形をとどめないきわめて日本的な俗信と化した為、カトリックに復帰できず今なお独自の信仰様式を継承している者達が存在する。これを学術的に「カクレキリシタン」(すべてカナ表記、「離れキリシタン」とも)と呼ぶ。 なお、未だカトリックに復帰しない理由については、信仰がキリスト教とかけ離れたというよりも、むしろキリスト教自体を信仰していないからというケースも多い。元来はカムフラージュであった仏教や神道のほうが本物の信仰になってしまい、キリスト教起源の行事は「単なる伝統」として継承しているに過ぎないというものである。
近年、過疎や高齢化によって「カクレキリシタン」の数は次第に減少している。最近まで伝承が継続されてきた地域として、長崎県の五島列島などの地域が挙げられる。現在も信仰を継承している地域は、長崎県平戸市(旧北松浦郡)生月町が挙げられる。長崎市外海町には隠れキリシタンの神社枯松神社があり、現在も例祭が行われている。
[編集] その他
新潟県の「新町」と呼ばれる地区に、隠れキリシタンの村がある[要出典]。
大阪府茨木市北部(千提寺地区)の高山右近旧領に大正時代まで発見されなかった隠れキリシタンの家々があり、ある旧家は信仰の品々を入れた「あけずの櫃」を長男にのみ伝承して誰にも見せなかった。こうした中から、現在神戸市立博物館蔵の重要文化財「聖フランシスコ・ザビエル像」もこの地の旧家で発見されている。現在茨木市立キリシタン遺物史料館で「あけずの櫃」や絵画、彫刻等の資料が公開されている。
[編集] 音楽
合唱曲や吹奏楽曲などの中に隠れキリシタンを題材としたものがある。
[編集] 合唱曲
- 交響曲「御誦」・男声合唱曲「御誦」:大島ミチル
- 宇宙について:柴田南雄
- おらしょ・どちりなきりしたん:千原英喜
- ミサ曲第二番“オラショ”・ぱらいぞ/オラショ:荻久保和明
- 邪宗門秘曲:木下牧子
- 十字架の島:岩河三郎
- マリア観音:藤原義久
[編集] 吹奏楽曲
[編集] CD・DVD
- 洋楽渡来考 4枚組 皆川達夫 日本伝統文化振興財団
[編集] 参考文献
- 洋楽渡来考 皆川達夫 日本キリスト教出版局
[編集] 関連項目
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