青年学校
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青年学校(せいねんがっこう)とは、1939年(昭和10年)に公布された青年学校令に基づき設置された、かつての日本における教育機関である。太平洋戦争終戦後の学校教育法の制定まで存在した。
[編集] 経緯
当時義務教育期間であった尋常小学校における初等教育課程6ヵ年の修了後、高等小学校、中学校、実業学校などの中等教育に進学をせず、勤労に従事する青少年の教育機関として設けられていた実業補習学校は、特に農村部における農業補習学校の隆盛をもって社会教育の一環としての需要を満たしていた。
これは、実業補習学校の教育目的が他の実業学校とは性格を異にしており、既に職業に従事している青少年に対する実務教育機関としての役割を担っていたことから、多くの実業補習学校は小学校に付置され、また、明治末期から大正年間に掛けて行われた青年団の振興政策とリンクし、これら勤労青少年の社会教育機関として定着して行ったことによるものと思われる。特に農村部においては、現代と違い機械化も進んでおらず、人手の欠かせない農繁期などを踏まえ、中等教育機関へ進学することができなかった事情とも相まって発展したものと見られる。
これとは別に1926年(大正15年)小学校修了後の生徒に対し、兵式訓練の施設である青年訓練所を設置する法令である「青年訓練所令」を公布した。青年訓練所は、16歳以上の男子に対して4年課程によって、軍事教練を主体とした訓練を施す教育機関とされ、訓練修了者は徴兵時の在営年限を半年短縮するなどの考慮が為された。
しかしながら、これら青年訓練所と実業補習学校は、教育を受ける年齢層がほぼ重なるうえ、多くの生徒は両校の「二重学籍」を持っていたことなどから、これらの教育機関を統合・拡充されることとなった。その結果生まれたのが、青年学校である。昭和10年に公布・施行された青年学校令によって設立された青年学校では、文部省と陸軍省による協力体制の下で、「実業補習学校」としての職能実務教育と「青年訓練所」としての軍事教練を両立させた。併せて、青年学校教員養成を目的とした青年師範学校も発足した。
青年学校は、尋常小学校(のち国民学校尋常科)卒業者を入学資格とし修業年限を男女とも2年とした「普通科」、普通科修了者または高等小学校(のち国民学校高等科)卒業者を入学資格とする修業年限を男子は5年女子は3年とする「本科」(地方によっては1年の短縮を認められた)のほか、本科修了者程度を前提とする修業年限1年の「研究科」や修業年限に規定のない「専修科」を設置するとした。これら青年学校の特色として、同年代の学生に対して従前より存在する中等教育機関(中学校・高等女学校・実業学校など)とのカリキュラム・教育目的を異にすることで、複線型教育の抜本的制度改革として位置付けられている。
その後1939年(昭和14年)政府は、男子に対する青年学校の義務制を実施することとなったが、その背景には、青年学校への男子の就学率が向上せず、尋常小学校卒のまま召集された者の多くが、学力について非常に低級であったことなどから、「機会均等」を建前として勤労教育の場に於いて底辺の「底上げ」を必要とするとした旨が有ったとされているが、事情はどうあれ、これによって男子においては、中等教育機関への進学をせずとも、国民学校初等科6年に青年学校普通科2年・本科5年の計13ヵ年に渡る義務教育期間を得ることとなった。
当時の政府教育審議会ではさらに、国民学校高等科2ヵ年の義務化・青年学校普通科の廃止による、8・5制による義務教育制度の実現に向けて審議を行っていたが、折からの中国戦線の拡大や、1941年(昭和16年)の太平洋戦争の開戦などから、8・5制の実現を見ることはなく国民学校高等科・青年学校普通科は並立した。加えて「戦時動員体制」のさなか,公立・私立を問わず青年学校の多くは軍需生産力の増強に向け、学科標準時数の引き下げや、職業科科目の実習(と言う名の勤労動員)への振り替えなどが勧められ、制度上は教育機関であったが、その実は戦時下の動員体制に組み込まれ、教育内容そのものの空洞化が進行したまま終戦を迎えることとなった。
戦後、青年学校は学校教育法の施行に伴う青年学校令の失効により廃止された。大阪府では、新学制発足決定後、その決定を先取りした形で青年学校普通科を「新制中学校」と称したところもあった。
廃止と連動して行われた学制改革に伴い、青年学校の校舎や普通科の教師は新制の中学校に移管されて活用され、本科の教師は新制の高等学校に移管し、農村の新制中学校への併置が多かった高等学校の季間定時制分校として職業教育活動が続けられた。
[編集] 外部リンク
- 青年学校令(昭和10年勅令第41号) - 中野文庫
- 文部科学省 白書等データベースシステム