高橋紹運
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高橋 紹運(たかはし じょううん、天文17年(1548年) - 天正14年7月27日(1586年9月10日))は大友氏の家臣。吉弘鑑理の次男で、立花宗茂の実父に当たる。妻は斎藤長実の娘で斎藤鎮実の妹。
初名は吉弘 鎮種(よしひろ しげたね)という。立花道雪とは盟友、または実の親子のような関係にあったと言われており、その武勇も道雪に劣らぬほど秀でていた。
1569年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が謀反を起こし、戸次鑑連(後の立花道雪)が、豊後国の朽網鑑康、筑後国の蒲池鑑盛、田尻鑑種らを指揮し、これを鎮圧した後、吉弘鎮種は、大友宗麟より高橋氏を継ぐことを命じられ、姓を高橋と改め、名も同時に紹運と改め、岩屋城と宝満城の二城を与えられた。
1581年、実子の無い道雪から嫡男・立花宗茂(当時の名は統虎)を養嗣子として立花氏にくれるように請われる。紹運は、統虎は高橋氏の大事な跡継ぎであり、その優れた器量も見抜いていたことから、これを最初は拒絶していたが、実の父のような存在である道雪の度重なる要請に遂に拒絶できなくなり、養嗣子として統虎を立花氏に出した。このとき、紹運は統虎に対して、「道雪殿を実の父と思って慕うように」と言い聞かせ、また一振りの太刀を与え「道雪殿と父が争うことになったならこの太刀で父を討て」と訓戒したという。
この頃、大友氏では耳川の戦いの大敗により衰退の一途をたどっていた。このため、紹運は道雪とともにたびたび、反大友勢力に対しての鎮圧のために出兵したという。しかし1585年に道雪が病没してしまうと、島津氏の本格的な反攻が始まることとなる。
はたして1586年、大友氏を滅ぼすべく島津軍が5万を号する大軍を率いて、紹運が籠もる岩屋城に侵攻して来た。このときの高橋勢はわずかに763名ほどであったが、紹運は島津軍の降伏勧告をはねつけて、徹底抗戦を行なう。結果、半月の攻防戦により紹運をはじめとする高橋勢は全員玉砕し、岩屋城は陥落したが、このときの紹雲の凄まじい抵抗により島津軍も4000人近くもの死傷者を出してしまい、島津軍は軍の立て直しのために撤退をするほかなかった。紹運の命を賭した抵抗は、島津軍の九州制覇の野望を見事に打ち砕いたのである。 紹運が島津軍と戦った岩屋城跡には、紹運の墓と『嗚呼壮烈岩屋城城址』と記された石碑が立っている。