アブデュルアズィズ
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アブデュルアズィズ(Abd-ul-Aziz、1830年2月9日-1876年6月4日)は、オスマン帝国の第32代スルタン(在位: 1861年-1876年)。第30代スルタン・マフムト2世の子で、第31代スルタン・アブデュルメジト1世の弟。
1861年、兄のアブデュルメジト1世の後を継いで即位する。1867年にはパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国のスルタンとしては史上初となる西欧諸国歴訪を行った。彼は海軍力の増強に力を入れ、その結果この時期のオスマン海軍は軍艦の保有数では世界有数となった。このような開明的な一面を持つ一方、帝国の財政が悪化しているのを顧みずにいたずらに宮殿の造営などの乱費を繰り返したりもした。また、力を注いだ海軍も、多くの艦船は外国製の中古である上に艦長もお雇い外国人であった。このため造船・操船とも技術が根付くことはなかったばかりか、艦船の購入にかかる莫大な費用が国家財政を圧迫することにもなった。そして、これらにかかる費用は公債で資金調達されたため、オスマン帝国が事実上の破産状態に陥ることにもなった。
アブデュルアズィズは西洋化そのものには積極的であったが、自らの権力に制限を加えることになる憲法や議会の創設には否定的であった。このため、当時「新オスマン人」と呼ばれた改革派から不満が上がるようになり、改革派の支持を背景にしたクーデターの結果、憲政樹立を主張するミドハト・パシャらによって廃位、幽閉された。そして同年、死去している。病死とも毒殺とも言われている。オスマン朝はすでにアブデュルメジト1世の治世末期から社会不安が広がっていたが、1875年には事実上の国家破産に陥るなど、アブデュルアズィズ期にかえってそれを促進させてしまった感は否めない。
歴代のスルタンの中で稀にみる大変な巨漢でもあった。
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