アレクサンドロス・ヤンナイオス
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アレクサンドロス=ヤンナイオス(Alexander Jannaeus,?-紀元前76年)は古代イスラエルを統治したハスモン朝の王(在位,紀元前103年-紀元前76年)。本来の名前はヘブライ語でヨナタン(Jonathan/Yonatan)またはイェホナタン(Yehonatan)。王に即位するときには、ヘレニズムにかぶれていたために、ギリシア語風にアレクサンドロス=ヤンナイオスと号した。 ヨハネ=ヒルカノス1世の子として生まれ、兄アリストブロス1世の後を受け、兄嫁のサロメ=アレクサンドラとの結婚を経てイスラエルを統治した。
その治世において、ユダヤ人たちの中にはヘレニズムの影響にどっぷりとつかっていくハスモン朝の統治者たちを苦々しい思いで見ているものもいた。祭司たちからなるサドカイ派はハスモン家を支持しており、お互いの利益を図っていた。これに対して厳格派ユダヤ教徒を自負したファリサイ派は、ギリシャ文化の影響を受けていたハスモン家を厳しく非難していた。また、王家の中でも兄弟たちの間での権力闘争が絶えなかった。
やがてユダヤ支配の復活を目指したセレウコス朝の王デメトリオス3世がファリサイ派を支援する形で内戦が勃発。サドカイ派と組んだヤンナイオスはファリサイ派や種々の反対勢力と武力衝突に至った。しかし、軍事指導者としての才能があったヤンナイオスは各地で勝利し、反対派やファリサイ派の要人を捕らえては残酷なやり方で処刑した。アレクサンドロス=ヤンナイオスはファリサイ派に対抗する味方を増やすため、エッセネ派とも接近したと伝えられている。クムランから発見された死海文書の中にはヤンナイオスをたたえていると考えられる祈りがある。
アレクサンドロス=ヤンナイオスは内戦に勝利した余勢をかって領土拡張をはかり、プトレマイオス朝と戦っては南西方向に領土を拡大したが、ガリラヤでの戦いでプトレマイオス朝軍に敗れた。ヤンナイオスはなおも戦いを続けたが、ラガバ要塞の包囲攻撃中に陣没し、その後のイスラエルは妻のサロメ=アレクサンドラが女王として統治した。
先の統治者: アリストブロス1世 |
ハスモン朝の指導者 (紀元前103年-76年) |
後継者: サロメ・アレクサンドラ |