ヘレニズム
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ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)に由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合したもの、すなわち「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス大王の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。
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[編集] 概念定義と批判
[編集] 古代オリエント文化との融合
アレクサンドロス大王の東方遠征によって東方の地域に伝播したギリシア文化が、オリエント文化と融合して誕生した文化を指してヘレニズム文化と称する場合がある。この文脈でヘレニズムの語を用いたのは、19世紀ドイツの歴史学者ヨハン・グスタフ・ドロイゼンである。ドロイゼンの功績は、マケドニアによるポリス征服までが古代ギリシア史の重要範囲とされていたため、ほとんど省みることがなかった征服以降の時期に脚光を当てたことである。これによって、多くの研究者の関心がこの時代に向かい、研究の前進がなされた。
しかし、この文脈での「ヘレニズム」という視点が、多くの問題を残したのも事実である。まず、この見解を示したドロイゼン本人が、19世紀を生きたドイツ民族主義者であり、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題などに積極的にかかわり、軍事力によるドイツ統一に理解を示した人物であった。こうした彼の心情は、広大な世界を武力統一したアレクサンドロスの軍事行動を美化させ、被征服側の主張に対して盲目になることを余儀なくさせたといえる。また、アレクサンドロスの征服と「ギリシア化」を一種の「文明化」のような文脈でとらえることは、当時の「暗黒大陸」アフリカを「啓蒙」しようとする心情にも通ずるもので、ヨーロッパ中心主義との批判もある。同時代にギリシア語(コイネー)が各地に広まったのは事実であるが、既にアケメネス朝の時代より商用語としてのアラム語が各地に普及しており、広大な世界における意思疎通は、アレクサンドロス以前より十分に可能であった。アケメネス朝の時代より各地域の文化は融合・発展しており、ことさらこの時期に流入したギリシア文化の役割だけを過大評価することは、それ以外の文化を軽視しているともいえる。
[編集] 時代区分としてのヘレニズム
時代区分としてのヘレニズム時代(Hellenistic period)は、アレクサンドロスの治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指す。
広大な帝国を築き上げたのちアレクサンドロスが死ぬと、その版図はアレクサンドロスの部下達によって争奪・分割された。これら、およびさらにそこから派生した諸国をヘレニズム諸国という。
これらの国は東地中海からオリエント地域を支配し、ギリシア風の「ヘレニズム文化」を維持・発展させたが、次第に共和政ローマが東へ進出することで滅ぼされ、ついに紀元前30年、最後のヘレニズム王朝であったプトレマイオス朝エジプトがローマに併合された。このことによって、ヘレニズム時代は終わったとされる。
しかし、その後も文化的にはギリシアはローマを圧倒し続けた。ギリシア語は東地中海地域の共通語として使われ、ヘレニズム文化が栄えた。また、ローマ帝国分裂後も7世紀以降の東ローマ帝国では支配地域・住民がギリシャ語圏となったためにヘレニズムの伝統が重視され、キリスト教と融合した「ビザンティン文化」を生むことになった。
[編集] ヨーロッパ文明の源流
ヨーロッパ文明の基調をヘブライズム(ユダヤ教・キリスト教)と、ヘレニズムに求める見解は、19世紀にマシュー・アーノルドによって示された。以降、こういった見解はヨーロッパ文明を説明する上で一般的に用いられている。