アレクシス・ド・トクヴィル
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アレクシス・ド・トクヴィル(Charles Alexis Henri Clerel de Tocqueville、1805年7月29日 - 1859年4月16日)は、フランス人の政治思想家。トクヴィルが19世紀初頭に当時新興の民主主義国家であったアメリカ合衆国を旅して著した『アメリカの民主政治』(Democracy in America、De la démocratie)は近代民主主義思想の古典であり、今もなおアメリカの歴史及び民主主義の歴史を学ぶ際には欠かせない教科書の一つとなっている。日本では福沢諭吉が翻訳・紹介している。
初め裁判官、後に国会議員から内閣外務大臣まで務め3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった政治家でもある。実家はノルマンディ地方の軍人・大地主という由緒ある家柄であるが、フランス革命の際に主な家族や親戚のほとんどが処刑されてしまったため、最初はリベラル思想について研究を行なった。その後ジャクソン大統領時代のアメリカに渡り、諸地方を見聞しては自由・平等を追求する新たな価値観をもとに生きる人々の様子を克明に記述した(後の『アメリカの民主政治』)。
彼は著作の中で当時のアメリカは近代社会の最先端を突き進んでいると見なし、新時代の先駆的役割を担うことになるであろう、と考えた。だが同時に、その先には経済と世論の腐敗した混乱の時代が待ち受けているとも予言している。さらに民主政治とは『多数派(の世論)による専制政治』だと断じ、その多数派世論を構築するのは新聞、今で言うところのマスコミではないかと考えた。現代のメディアの台頭と民主主義政治との密接な関わり合いをいち早く予想していたのである。彼は大衆世論の腐敗・混乱に伴う社会の混乱を解決するには宗教者や学識者、長老政治家などいわゆる『知識人』の存在が重要であると考えており、民主政治は大衆の教養水準や生活水準に大きく左右されることを改めて述べている。
トクヴィルは30歳の時に、家族の反対を押し切り英国人で平民階級の3歳年上の女性と結婚した。1848年の二月革命の際には革命政府の議員となり、更に翌年にはバロー内閣の外相として対外問題の解決に尽力した。彼の政治的手腕はなかなか鮮やかなものであったが、1851年ルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)のクーデターに巻き込まれて逮捕され、政界を退くことになる。その後は著述及び研究に没頭する日々を送り、1859年母国フランスで肺結核のため54歳の生涯を終えた。フランスが誇る世界的歴史家・知識人であると言えるだろう。
[編集] 主著
- アメリカの民主政治(De la démocratie、1835年)
- 旧体制と大革命(L'Ancien Régime et la Révolution、1856年)
前任: ジャン=ジェラール・ラキュエー・ド・セッサ |
アカデミー・フランセーズ 席次18 |
後任: アンリ・ラコルデール |
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