アンドレーア・パッラーディオ
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アンドレーア・パッラーディオ(Andrea Palladio, 1508年11月3日 - 1580年8月19日)はイタリア・パドヴァ生まれの建築家。本名はアンドレーア・ディ・ピエトロ・デッラ・ゴンドラ(Andrea di Pietro della Gondola)。
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[編集] 生涯
1508年、パドヴァの粉屋ピエトロ・デッラ・ゴンドラの子として生まれ、石工となるべくバルトロメオ・カヴァッファの工房に入ったが、やがてヴィチェンツァに移り、ジョヴァンニ・ディ・ジャコモとローラモ・ピットーニの工房に入った。その後、人文主義者ジャン・ジョルジョ・トリッシノと出会い、彼から数学、音楽、ラテン文学、そして古典主義の思想と、叙事詩の天使の名として考えられていたというパッラーディオの名前を与えられた。
1541年と1545年に、トリッシノとともにローマを訪れたパッラーディオは、ドナト・ブラマンテとラファエロ・サンティの建築、ウィトルウィウスの『建築十書』を研究し、自らの建築の立脚点を見いだしたようである。1546年、ローマから帰国した彼は、ヴィチェンツァ中心部のパラッツォ・デッラ・ラジョーネ(通称バシリカ)の改修案を市に提出し、ヤーコポ・サンソヴィーノ案、ジュリオ・ロマーノ案を退けて当選した。この建築は公共性が高く、かつ、巨大なものであったことから、彼の名声は北イタリア一帯に高まり、仕事の依頼は絶えることなく舞い込んだ。
ヴィチェンツァでの最初の邸宅建築であるパラッツォ・ポルト(1549年頃着工)は、明らかにラファエロとブラマンテの影響を受けたものであるが、1550年に起工されたパラッツォ・キエリカーティは、ヴェネツィアの伝統に則したものとなっている。彼の別荘建築はシンメトリカルな平面で、各部は調和比例によって決定されている。1554年起工のヴィッラ・バルバロ、1556年のヴィッラ・バドエル、そして1566年に着工したヴィラ・アルメリコ(ラ・ロトンダ)は、その傑作である。
パッラーディオは、ヴェネツィアでも仕事を受けた。1564年に、修道院長アンドレア・パンプーロがベネディクト派鼓舞のために計画したサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂、1578年に、ペスト終結の祈願としてジュデッカ島に建てられることが決定されたイル・レデントーレ聖堂の建設である。
1556年、ヴィチェンツァの貴族と知識人は、文化活動の拠点としてアカデミア・オリンピコを設立し、パッラーディオは、1580年初旬に恒久的劇場としてテアトロ・オリンピコを設計したが、その年の夏に死去した。
[編集] 設計手法
パッラーディオはルネサンスとバロックの中間のマニエリスムの建築家とみなされている。バロック特有の動的形態は見られないが、ルネサンスのように古代ギリシア・ローマの古典形式を忠実に再現することを目的としてもいない。古典建築の形態要素である柱・アーチ・エディキュラなどを自由自在に組み合わせ、独創的な建築を設計した。「パラディアン・モチーフ」と呼ばれた、アーチと柱を組み合わせた開口部の手法や、教会のファサードをジャイアント・オーダーと呼ばれる大柱と小柱を並列させ、ペディメントと組み合わせて中央部を強調する手法や、普通の住宅にペディメントを取り付ける手法などは後世に影響を残した。
[編集] 影響
パッラーディオは、職業建築家としては最初の人物で、他の芸術活動には携わらなかった。彼の建築は、考古学的知識に裏打ちされたものであったが、その作品は衒学的なものではない。彼がローマ建築を調査し、論考した『ローマ建築(Le antichita di Roma)』は1554年に出版され、1570年に刊行した『建築四書』は、彼の建築理論の集大成であり、後のパッラーディオ主義において、標準的なテキストとなった。
彼は、死後、全く忘れ去られた存在となったが、18世紀のイギリスにおいて、イニゴ・ジョーンズやバーリントン卿らによってその建築と著作が再評価され、パッラーディオ主義とよばれる建築運動を巻き起こした。
彼の建築は ヴィチェンツァを中心に多く残り、ヴェネト地方の別荘群は世界遺産に登録されている
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- ピーター・マレー著 桐敷真次郎訳『図説世界建築史 ルサンス建築』(本の友社)ISBN 9784894391550
- ニコラス・ペヴスナー他著 鈴木博之監訳『世界建築辞典』(鹿島出版会)ISBN 9784306041615