イエスの方舟事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イエスの方舟事件(-のはこぶねじけん)は、日本で1979~1980年に発生した団体「イエスの方舟」に関連する事件である。マスコミが主導した事案として知られる。
目次 |
[編集] 背景
イエスの方舟とは、主宰者の千石剛賢(せんごく たけよし、1923年7月12日 - 2001年12月14日)が開催していた聖書勉強会である。それ以前より、布教活動をしていたが、1975年頃、名称をイエスの方舟と改めるとともに、東京都国分寺市で勉強会を開催していた。この頃、家庭には居場所がないと感じていた信者(独身女性が多いが、男性や既婚女性がいなかった訳ではない。また、全員が10~20代というのは誤りである)が千石の活動に共感し、家庭を捨てて共同生活を始めるようになる。これに対し、信者の家族は信者が自主的に家庭を捨てるという事が理解できず、千石にだまされていると考えた。このため、家族は強引に信者を連れ戻そうとし、警察も家族からの捜索願いを名目に介入するが、信者は家庭に戻らなかった。その後、千石の体調が悪化したことと満足な布教活動ができなくなった事を理由に、1978年から千石は信者20数人と共に逃亡生活に入る。
[編集] 経緯
信者の家族は、信者を連れ戻すために捜索願を出すととともに、マスコミにも千石を一方的に告発して、捜索の協力を依頼した。これに飛びついたのが、婦人公論誌である。1979年に「千石イエスよ、わが娘を返せ」というタイトルの家族からの手記を掲載し、千石を邪教の主宰者と糾弾した(なお「千石イエス」という呼称はメディアの造語であり、本人は一度も名乗ったことはない)。次いで、産経新聞も「反イエスの方舟キャンペーン」を張り、その後、多くのマスコミも、同調する報道が続いた。国会でも狂信的団体として取り上げられ、イエスの方舟はカルト教団として、全国に知られることになる。このような世論に押され、警察も千石を犯罪者と認定、名誉毀損などの容疑で5人に対して逮捕状をとり、全国に指名手配した。特筆すべきこととして、このような世論の中でもサンデー毎日誌のみはイエスの方舟を正当に評価し、冷静な報道を続けた事である。他のマスコミから「方舟の宣伝誌」などと批判されたが、姿勢に変化は無かった。
1980年7月に千石は密かに熱海の製本会社の社員寮に一時移動し、サンデー毎日記者と会見した。サンデー毎日は千石を匿うとともに、高木一を弁護士として依頼し、「千石イエス独占会見記」を掲載した。
千石は体調悪化により、入院するが半月後に出頭した。千石の取調べは、任意調査にとどまり、書類送検されたものの翌年に容疑事実は無いとして不起訴処分の決定が下された。
[編集] その後
千石の出頭後に実態が世間に知られるようになるにつれ、マスコミ取材は沈静化するようになる。千石は逮捕されることなく、福岡の中洲に移って「シオンの娘」というクラブを経営する。千石と行動を共にした会員(信者)は、一時家庭に戻ったが、千石を追って共同生活を続けた会員も少なくない。
なお、クラブに勤めているのは女性会員。酒も提供するが、歓楽的嗜好ではなく「教会」のように、来客の悩みや人生相談に乗るなどの活動拠点でもあった。男性会員は千石と共に大工仕事に勤しんでいた。ちなみに共同生活において、千石は会員から「おっちゃん」と呼ばれ親しまれていた。
千石の死後も信者はクラブ経営の他に、近親者などからの暴力から逃れる女性の『駆け込み寺』的な施設の運用も行っている。
[編集] 影響
この後、警察が新興宗教に対する捜査に及び腰となり、オウム真理教の犯罪拡大を防止できなかった原因となったとの意見がある。また、この事件でサンデー毎日編集部スタッフ全員が犯人隠避で警察に捕まりそうになったがその中にはジャーナリストの鳥越俊太郎がいて鳥越はこの一件が元で警察から危険人物としてマークされ以降さまざまな形で警察組織から報復されることとなる。(※ 桶川ストーカー殺人事件の調査報道で桜タブーを破った事で報復を受けたのが何よりの証拠。)