イルハン・マンスズ
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イルハン・マンスズ (İlhan Mansız 1975年8月10日- ) は、トルコのサッカー選手。ポジションはフォワード。
1975年8月10日、ドイツのケンプテンで、クリミア・タタール系トルコ人の出稼ぎ労働者の両親の間に生まれ、トルコ国籍のドイツ移民2世としてドイツで育った。9歳のとき、母、姉と共に実家のあるトルコのエスキシェヒルに父より一足先に帰国したが、4年後に再び父のいるドイツへと戻った。
ドイツ帰国後、アマチュアのサッカー選手となったイルハンは、SVレンツフリード、FCケンプテンを経て、FCアウグスブルクの在籍中にこのユースチームで優勝、1年後に19歳で1.FCケルンのユースに移籍した。1995年、家族の勧めで母国トルコでプロを目指し、アンカラのクラブチーム、ゲンチレルビルリイに入団した。しかし、ドイツ育ちであったイルハンはトルコ語が不得手であったためにチームになじめず、半年で2試合、計80分出場したのみで活躍機会を与えらることもなく、また椎間板ヘルニアを患うなど、失意の内にドイツに帰国した。それから数ヶ月間、サッカーとは無縁の日々を送るものの、再び情熱を取り戻すことになる。
1997年、再びトルコでのプロ入りを目指し、トルコ2部リーグのクシャダススポルでデビューして注目を浴びた。1999年にトルコ1部リーグのサムスンスポルに移籍して好成績を残し、2001年には有力クラブ・チームの一つベシクタシュに移籍して2001-02年のシーズンに21ゴールを挙げ、得点王となった。
トルコ代表選手としては2001年10月のワールドカップ予選で初出場した。翌2002年のワールドカップ日本-韓国大会では、控え選手ながら準々決勝の対セネガル戦の延長戦で出場、決勝点となるゴールデンゴールを決めるなど、このチームの最多となる合計3得点を挙げ、トルコの3位躍進に貢献した。
トルコでもスター選手として人気のあるイルハンは、日本ではワールドカップでの活躍の結果、デビッド・ベッカムに次ぐ注目を集めた。女性週刊誌やワイドショーではたびたび彼の特集が組まれ、「イルハン王子」の愛称で女性を中心にファンを獲得し、写真集やDVDが発売されるなど一大ブームとなった。特に『週刊女性』は10週近くにもわたって連載を続け、ブームの火付け役となった。
2004年2月、日本のヴィッセル神戸に移籍。ワールドクラスの金額(移籍金5億円、年俸3億5千万円の2年契約)で獲得したものの、膝の古傷の痛みの再発により試合には3試合にしか出場せず、6月20日にクラブに無断で帰国。クラブは戦力外とみなし、本人も復帰の意思を見せなかったため、そのまま退団することとなる。
2005年1月27日、冬の移籍市場で、ドイツのヘルタ・ベルリンとの契約に合意し移籍が決まったが、同年6月にヘルタ・ベルリンも退団。次いで7月にトルコのアンカラギュジュへ入団したが、翌2006年1月に退団した。そして 2006年8月現役引退を表明した。
2007年1月、米アリゾナ自主トレ中の広島の嶋重宣外野手と栗原健太内野手が、現地にてイルハンと対面した。すでに滞在4カ月のイルハンは、2人に気さくに話しかけ、最後は「お互いいい年にしよう」と別れたという。
[編集] 選手経歴
- ゲンチレルビルリイ(トルコ) 1995-1996
- クシャダススポル(トルコ) 1997-1998
- サムスンスポル(トルコ) 1998-2001
- ベジクタシュ(トルコ) 2001-2004
- ヴィッセル神戸(日本) 2004
- ヘルタ・ベルリン(ドイツ) 2005
- アンカラギュシュ(トルコ) 2005-2006
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