イヴァン・バッソ
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イヴァン・バッソは(Ivan BASSO、1977年11月26日 - )はイタリアを代表する自転車プロロードレースの選手。ランス・アームストロングの引退に伴い、現在最もツール・ド・フランスの総合優勝に近いと言われる人物の一人である。
1995年ジュニア世界選手権で2位に入ったのが初のメジャー大会でのリザルトであった。その後1998年プロに転向し更ににU-23の世界選手権で優勝を遂げている。ファッサ・ボルトロに移籍をした2001年にはジロ・デ・イタリアで初めてステージ優勝を獲得。ツール・ド・フランスにも初出場を果たす。そして2002年にはツール・ド・フランスで総合11位に輝き、新人賞であるマイヨ・ブランの白ジャージを獲得する。元来はタイム・トライアルが苦手な選手であったが、ビャルヌ・リースと師弟関係になりそれを克服した事が大きな飛躍につながっていく。
2004年のツール・ド・フランスでは総合3位を獲得し、一躍打倒ランス・アームストロングの一番手へと踊りでる。2005年には強さを見せつけジロ・デ・イタリアで総合優勝のチャンスがありながら途中体調を崩し、そのチャンスを逃している。危うくタイムオーバーになる程に体調を崩しても棄権せず、その後のステージでは活躍を見せていることから、精神的な強さもうかがい知ることが出来る。ただ、同年のツール・ド・フランスではランスの完璧なレースの前についに勝つ事が出来ず総合2位に屈してしまう。
2006年のジロ・デ・イタリアでは圧倒的な強さを見せつけて総合優勝を飾り、ランス・アームストロング引退後のグラン・ツールの世界は彼を中心に回っていくのではないかと予感させた。特に終盤の山岳ステージにおいて、過去2回のジロ優勝経験を持つベテランのジルベルト・シモーニを横綱相撲で完膚無きまでに叩き潰したシーンは、盟主交代を強烈に印象づけるものとなった。
現在その年齢からも、同一年度でのツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアの2大ツールの総合優勝(ダブル・ツール)を狙える唯一の人物であると言っても過言ではないだろう。
2006年ツール・ド・フランスの前日の6月30日、プロ・ツール界を覆ったドーピング問題(オペラシオン・プエルト)のあおりを受け、それ以後のレース出場中止を余儀なくされた。これについては関与への証拠が不十分としてイタリア・オリンピック協会が審議を打ち切る事により、身の潔白が証明されレース出場が可能となったが、現所属チームであるTEAM・CSCとの契約は打ち切りとなり、数チームと契約交渉を行ってきた。そして2006年11月8日(米国時間)にディスカバリー・プロサイクリングチームと契約を交わしたと発表、12月3日からオースティンで行われるチームトレーニングキャンプにバッソが参加すると報じた。
[編集] ランス・アームストロングとの関係
バッソはランス・アームストロングとは個人的にも非常に親密な関係にある。それは、2003年バッソの母が癌で倒れた時以来、ランスは真剣にバッソの相談にのり、母親が亡くなるまでの9ヶ月間バッソをサポートし続けたと言う。バッソの母が亡くなって3日後のレース、エクスアン・プロヴァンスでバッソが優勝した時も一番早く電話を掛けたのはランスであった。
2004年のツール・ド・フランスの第12ステージで彼等は直接の一騎打ちとなったが、辛そうなバッソ、余裕を見せるランス、勝敗の行方はランスかと思われたが、しかしこのステージで区間優勝を獲得したのはバッソであった。この時ランスはインタビューで「今日は勝てなくて嬉しかった」と発言している事から、闘病中のバッソの母にバッソのツール・ド・フランスでの勝利を捧げたのかもしれない。(ちなみにその翌日の第13ステージでも最後は二人の一騎打ちとなったが、この時はランスがトップを譲らずステージ優勝している)
[編集] 戦績
- 2002年
- ツール・ド・フランス 総合11位
- 2003年
- ツール・ド・フランス 総合7位
- 2004年
- ツール・ド・フランス 総合3位
- 2005年
- ツール・ド・フランス 総合2位
- ジロ・デ・イタリア 第17・第18ステージ 区間優勝
- 2006年
- ジロ・デ・イタリア 総合優勝
[編集] 外部リンク
カテゴリ: イタリアの自転車選手 | 1977年生