ウィリアム・シャーマン
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ウィリアム・テクムセ・シャーマン(William Tecumseh Sherman, 1820年2月8日 - 1891年2月14日)は、アメリカ合衆国の軍人。ミドルネームの Tecumseh は、19世紀初頭にアメリカ合衆国と戦ったショーニー族の首長、テクムセにちなんだもの。
南北戦争に於いて、焦土作戦をアメリカ南部で展開。近代戦略の実行者、又は近代戦の創始者、最初の近代将軍などと評価される。南北戦争後1869年にアメリカ合衆国の陸軍総司令官に昇格、1884年に引退するまでその任を勤めた。彼の行ったジョージア州アトランタを焼き払った後の海への進軍、及びサバナよりの北上作戦により、南部経済は壊滅し、南北戦争の終結を早めたとされる。南部の白人系アメリカ人の彼に対する恨みは深く、第二次世界大戦中に、彼の名前が冠されたシャーマン戦車に南部出身者が乗る事を拒んだと言うエピソードまである。
残虐なイメージの付きまとう彼は、実はかなり有名な嫌戦家であり、南北戦争以前から、戦争の虚しさ、悲惨さを強調した手紙、文、スピーチなどを色々残した事でも知られる。有名な英語の『War is Hell』、和訳の『戦争は地獄』は、一般的に彼の言葉だとされる。
作家、戦略論家としても知られ、数多くの本を出版し、アメリカ軍の戦略論の研究の為に士官達の為の高級学校である現在のアメリカ陸軍指揮幕僚大学(Command and General Staff College)の元になる学校を築くなど、近代戦略論史に多大な影響をもたらした。
弟は独禁法(反トラスト法)発案者で有名なジョン・シャーマン連邦上院議員。
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[編集] 南北戦争に至る迄
1820年2月8日にオハイオ州ランカスターで生まれる。9歳の時に判事であった父親が死亡、近所に住む家族の友人でもあった当時のオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員、後に内務長官に就任したトマス・ユーイングの家に引き取られる。この際にウィリアムの名前を与えられた。
16歳の時にウエストポイントに入学、1840年に6位の成績で卒業。砲兵少尉として、フロリダでの実戦を経験する。 米墨戦争では、カリフォルニアで後方支援などの事務を行い大尉に昇格する。
1850年にトマス・ユーイングの娘と結婚、1853年に一度軍を退役。 サンフランシスコに移住し、銀行を経営する。サンフランシスコでは複数の事故に会う、そして銀行経営の失敗からストレス性の病気になった。
1856年にカリフォルニア州政府の軍の少将に就任。1857年に銀行が倒産して、カンザス州に移住する。
カンザス州では、法律家として再起を計るが失敗。1859年にルイジアナ州に移り、後にルイジアナ州立大学となる新たに設立された州立軍学校で学長となり教鞭を取る。この為、シャーマン将軍はルイジアナ州立大学の初代学長とされる。
1861年に南部が独立を宣言すると、シャーマンはルイジアナ州のバトンルージュにある連邦軍施設の接収を知事に命じられるが、拒否して学長の地位を退任する。この際に南部の敗戦を的確に予測していたとされる。退任後数ヶ月のみ、鉄道会社の経営に携わるが、直ぐワシントンD.C.に呼び戻された。
[編集] 南北戦争中の戦歴
ウエストポイント時代の友人の多くが南部の将軍に就任したが、シャーマンは北軍の第13歩兵連隊の指揮官大佐に1861年5月14日に就任。同年7月21日のブルランの戦いでは、北部軍総崩れの中、軽傷を負うも、善戦。 リンカーン大統領は、准将にシャーマンを昇格させ、ケンタッキーカンバーランド戦線(ケンタッキーからテネシーにかけてのカンバーランド川沿い)の司令官とする。
ケンタッキーでのシャーマン将軍は過労とストレスで、一時期精神に異常を来たしオハイオ州の実家での静養を余儀なくされるが1862年4月6日から7日にかけてのシャイローの戦いではグラント将軍配下の師団指令官として善戦。負傷しつつも師団を指揮し、北部軍の敗走の被害を重大な物としなかった。 その功績で、同年5月1日には少将に昇格する。
1863年頃迄に、グラント将軍との間に深い信頼関係を築く。ストレスから精神的に不安定であったとされるシャーマン将軍と、アルコール依存症であったグラント将軍は、お互いに、互いが精神的に低調であった際にサポートしあったとされる。この為、1863年7月のビックスバーグの攻略、同年12月のチャタヌーガの戦いの功績は二人で分け合っている。
1864年にリンカーン大統領がグラント将軍をワシントンに呼び戻しアパラチアより東の総司令官、及び北部軍の総司令官に任命すると、シャーマン将軍は西の総司令官に昇格する。
同年ジョージア州アトランタ(風と共に去りぬの舞台となった)を攻略。占領後、アトランタを焼き払い、11月に海への進軍と呼ばれるジョージア州サバナへの進撃作戦を開始する。この作戦はジョージア州の最も肥沃な地帯を焦土と化し、また鉄道と通信等のインフラ設備は悉く破壊された。24日後の12月21日にはサバナも陥落、綿花の輸出を行う主要な港を落とされたジョージア州は完全に北部軍の手中に落ちた。
1865年にはサバナよりバージニアを目指して北上作戦を開始、途中サウスカロライナ州を徹底的に破壊、サウスカロライナ州の州都のコロンビアは焼き払われた。同年4月にはノースカロライナ州に進撃、ジョセフ・E・ジョンストン将軍を降伏させ、ロバート・E・リー将軍の率いるバージニア軍をグラントの東方面軍と戦略的に挟撃出来る位置迄進撃すると、進退の窮まったリー将軍はグラント将軍に降伏。此処に南北戦争は終結した。
[編集] 近代戦(全面戦争)の創始者
シャーマン将軍は南北戦争を代表する北部軍人として名を残したが、決して前線で目覚ましい活躍を見せる猛将では無く、戦術指揮官としては中程度の能力の持ち主だったと評価されている。 戦術面で優れている猛将、勇将達は南部の方が充実しており、北部はリンカーンの政治戦略と、グラント将軍、シャーマン将軍の軍事戦略と、カスター将軍などに代表される猪突猛進型の将校との組み合わせが出来る迄、苦戦を強いられた。
それにも関わらず、シャーマン将軍が評価されるのは、その時代には卓越した戦略理論であった全面戦争を編み出し、実行した事に他ならない。ジョージア州を徹底的に破壊しながら、北部にとって戦略的に重要な町(サバナなど)や物資(収穫済み綿花など)はしっかりと確保しており、ただ無意味な破壊のみをもたらした訳でなく、戦略的意味を計算しながら破壊進撃した事は評価されるべきである。
その一方で、彼の軍人としての経歴の中には南北戦争後の悲惨なアメリカ先住民各部族の掃討戦も含まれており、結果としては彼の軍事戦略理論の正しさを証明もしたが、戦争をよりいっそう悲惨な物にさせた功罪は未だに評価を付けにくい所でもある。近代戦の人種掃討作戦、一般人、及び一般施設への無差別攻撃など、非戦闘員を巻き込んだ戦争の形態を作った人物でもあり、嫌戦家であった軍事学者/作家としての彼の言動を考慮すると大変興味深い。アメリカ合衆国に対する先住民の抵抗戦の英雄テクムセの名を持つ彼が先住民掃討戦で活躍したのも、歴史の皮肉である。
[編集] 外部リンク
- U.S. Army Center of Military History
- William T. Sherman Family papers from the University of Notre Dame
- General William Tecumseh Sherman from About North Georgia concentrates on Sherman's time in Georgia
- William Tecumseh Sherman, from the Virtual Museum of the City of San Francisco, concentrates on Sherman's time in California
- Sherman House Museum, at Sherman's birthplace in Lancaster, Ohio
- St. Louis Walk of Fame
- Memoirs of General W. T. Sherman
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