ウラジーミル2世モノマフ
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ウラジーミル2世モノマフ(Владимир II Мономах, 1053年 - 1125年5月19日)はキエフ大公(在位:1113年 - 1125年)。洗礼名はヴァシーリー。
[編集] 経歴
相次ぐ内乱や外冦で衰えていた大公国を中興し、後世もっとも人気のあるキエフ大公となった。父はフセヴォロド1世、母はビザンティン皇帝コンスタンティノス9世モノマコスの娘。ヤロスラフ1世の孫。息子にムスチスラフ1世、ユーリー・ドルゴルーキーがいる。ウラジーミルはポロヴェツ族(キプチャク)との戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。 モノマフのあだ名は、母方の祖父にあたるビザンティン皇帝コンスタンティノス9世モノマコスにちなむ。ウラジーミルは母方の系譜を通じてビザンティン皇帝家さらにはロマノス1世レカペノスやアルメニア出身のレオーン5世の血筋に属していた。これは外交面で大きな利点となった。
先代のキエフ大公スヴャトポルク2世とは従兄弟の関係になる。スヴャトポルクの治世中は、有力な諸侯の一人として、緊張した対立関係にあった。1093年以降、ウラジーミルは、自らの相続地であるペレヤスラフのほか、スズダリ、ロストフを支配し、のちに大公国の首都となるウラジーミルを含め、いくつかの都市を建設した。また内紛を解消し遊牧民との戦いに備えることを目的とした諸公会議を3度組織した。キエフ・ルーシでは兄弟への分割相続が行われ領地の相続権を争う内紛が絶えなかった。1097年リューリクでの諸侯会議で、それぞれの相続地を現状固定する合意が結ばれた。しかしその後も諸侯同士の内紛は続いた。1096年には、スヴャトポルクに従いポロヴェツ族の遠征にも同行した。
1113年スヴャトポルクが没すると、キエフの住民はただちに暴動を起こし、ウラジーミルの即位を求めた。ウラジーミルはキエフに平和裡に入城し、以後1125年まで公位を保った。
ウラジーミルは精力的に活動した。彼自身の言葉によれば、生涯に「大きな遠征を83回行った」。また内政面では、曽祖父ヤロスラフ1世の作った法規ルースカヤ・プラウダを詳細化し補完する「モノマフの法典」を作った。ウラジーミルは服属しない諸公から領地を没収し、息子たちに与えることで、最終的に国土の3分の4を支配下に置いた。
ウラジーミルの死後は息子ムスチスラフ1世が後を継ぎ、公国の安定を維持した。
[編集] 家系
ウラジーミルは三度結婚した。最初の妻ハロルド2世の娘であるウェセックスのギータからはムスチスラフ1世を含む5人の息子を得た。
- ムスチスラフ1世 (1076年-1132年)、キエフ大公。
- イジャスラフ・ウラジミロヴィチ(1096年9月6日没)、クルスク公
- スヴャトスラフ・ウラジミロヴィチ(1114年3月16日没)、スモレンスクおよびペレヤスラフ公
- ヤロポルク2世(1139年2月18日没)、キエフ大公。
- ヴャチェスラフ1世(1154年2月2日没)、キエフ大公。
第二の妻はコンスタンティノポリスの貴族の娘であった。彼女からユーリー・ドルゴルーキーと娘二人が生まれた。娘の一方はハンガリー王コロマンに嫁いだ。ウラジーミルの妹エフプラクシアはハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)に嫁いだが、後にハインリヒが自分の裸身の上で黒ミサを行ったと申し立てて離婚し、ヨーロッパ中の醜聞の的となった。
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