キエフ大公国
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キエフ大公国(―たいこうこく)は、現在のウクライナの首都キエフを中心とした東スラヴ人の国家(882年頃 -1240年)。キエフ・ルーシ、キエフ公国とも呼ばれ、現在の ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの共通の祖とされる(この国が崩壊した後、それぞれ別の道をたどることになる)。公国を建国したのは、ノルマン人のスウェーデン系ヴァイキングとされるが、ヴァイキング側による記述はない。支配者側がノルマン人であったものが、同地のスラヴ人と混血し、10世紀までには、完全に同化され、東スラヴ人の国家となった。
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[編集] 歴史
[編集] 建国期
ルーシ最古の年代記である『ルーシ原初年代記』(『過ぎし年月の物語』)によれば、ノヴゴロドに拠って最初のルーシの国家を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。なお、この国家を建設したと年代記が記している「海の向こうのヴァリャーグ」がノルマン人なのかそうでないのかには議論があるが、ノルマン人が関与していたことはほぼ間違いないとされている(彼らの言語は古ノルド語であったが、次第にルーシ語へと変遷して行った)。建国当初はまだキリスト教化もしておらず、ベルーンなどの固有の神々を信仰していた。
建国より10世紀までの歴代支配者、すなわちオレグ、イーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国東ローマ帝国(ビザンツ帝国)とも数度戦い、帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲するまでになった。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていた東ローマに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第に東ローマの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至っては東ローマ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教(東方正教会)の洗礼を受けたと言われている(ただし、このときのオリガの改宗は個人的なものである)。
[編集] 英雄達の時代
[編集] スヴャトスラフの戦い
オリガの息子スヴャトスラフ1世の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。965年にはハザール・カン国に大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退するものの、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備した東ローマ艦隊に敗れ、遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年、ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。
[編集] ウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公
スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラジーミル1世)となった。ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。貴族の反乱に悩まされていた東ローマ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてバシレイオスの妹アンナを妃に迎え、東方正教会を国教として導入した。これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、ローマ皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。これによってウラジーミルは「聖公」と称えられている。
1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制して弟達を殺害し、大公位を継承しようとしたが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。またスウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年には東ローマ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対東ローマ遠征となった。
内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、ヤロスラフは「賢公」と呼ばれている。
[編集] 衰退と国家の解体
ヤロスラフ1世は1054年に没した。死に際してヤロスラフは、子供たちを重要な都市へ配して国家を安定させようと図ったが、かえって争いが頻発してしまった。また、ペチェネグ人に代わってポロヴェツ族が度々ルーシを攻撃した。こうしてキエフ大公の権威は低下し、諸公が自立傾向を強めることになった。
この傾向は1113年に大公となったウラジーミル2世モノマフとその子ムスチスラフ1世の時代にいったん食い止められる。ウラジーミルはポロヴェツとの戦いで戦果を上げ、キエフ大公国全体の統一を回復した。
しかし、1132年のムスチスラフの死後は再び諸公の争いが頻発し、キエフはリューリク家の血を引く諸公達の争奪戦の場所となって破壊されてしまった。十字軍遠征と、それによる地中海貿易の活発化でドニエプル川経由の交易が衰退し、内乱やポロヴェツとの度重なる戦争でキエフの街とキエフ地方は荒廃。人々は北東のノブゴロドやモスクワなどへ移住していった。
これによりルーシは完全に分裂し、北東ルーシのノヴゴロド公国、ロストフ・スーズダリ公国や南西ルーシのガーリチ・ヴォルイニ公国などが割拠する時代に入ることになる。
1240年、モンゴル帝国軍が南ルーシを制圧し、キエフ大公国は滅びた。
[編集] 歴代大公
[編集] リューリク朝
- オレグ(在位:893年 - 924年)
- イーゴリ1世(在位:924年 - 945年)
- 摂政オリガ(在位:945年 - 964年)
- スヴャトスラフ1世(在位:945年 - 973年?)
- ヤロポルク1世(在位:973年 - 978年)
- ウラジーミル1世(聖公)(在位:978年 - 1015年)
- スヴャトポルク1世(在位:1015年 - 1016年)1度目
- ヤロスラフ1世(賢公)(在位:1017年) 1度目
- スヴャトポルク1世(在位:1018年 - 1019年)2度目
- ヤロスラフ1世(賢公)(在位:1019年 - 1054年)2度目
- イジャスラフ1世(在位:1054年 - 1068年)1度目
- フセスラフ(在位:1068年 - 1069年)
- イジャスラフ1世(在位:1069年 - 1073年)2度目
- スヴャトスラフ2世(在位:1073年 - 1075年)
- フセヴォロド1世(在位:1075年 - 1076年)1度目
- イジャスラフ1世(在位:1076年 - 1078年)3度目
- フセヴォロド1世(在位:1078年 - 1093年)2度目
- スヴャトポルク2世(在位:1093年 - 1113年)
- ウラジーミル2世モノマフ(在位:1113年 - 1125年)
- ムスチスラフ1世(在位:1125年 - 1132年)
- ヤロポルク2世(在位:1132年 - 1139年)
- ヴャチェスラフ(在位:1139年)
- フセヴォロド2世(在位:1139年 - 1146年)
- イーゴリ2世(在位:1146年)
- イジャスラフ2世(在位:1146年 - 1154年)
- ロスチスラフ1世(在位:1054年)
- イジャスラフ3世(在位:1154年 - 1155年)1度目
- ユーリ-1世ドルゴルーキー(在位:1155年 - 1157年)
- イジャスラフ3世(在位:1157年 - 1158年)2度目
- ムスチスラフ2世(在位:1158年 - 1159年) 1度目
- ロスチスラフ1世(在位:1159年 - 1161年) 2度目
- イジャスラフ3世(在位:1161年)
- ロスチスラフ1世(在位:1161年 - 1167年)3度目
- ムスチスラフ2世(在位:1167年 - 1169年)2度目
- グレプ(在位:1169年 - 1171年)
- ロマン(在位:1175年 - 1177年)
- スヴャトスラフ3世(在位:1177年 - 1194年)
- リューリク2世(在位:1203年 - 1210年)
- フセヴォロド3世(在位:1206年)
- フセヴォロド3世(在位:1207年)
- フセヴォロド3世(在位:1210年 - 1214年)
- ムスチスラフ3世(在位:1214年 - 1223年)
- ウラジーミル3世(在位:1223年 - 1235年)
- イジャスラフ4世(在位:1235年 - 1239年)
- ロスチスラフ2世(在位:1239年)
- ダニール・ロマノヴィチ(在位:1240年)
[編集] 関連事項
- リューリク朝
- ノルマン人