エレーナ・ベレズナヤ
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フィギュアスケート | ||
金 | 2002 | ペア |
銀 | 1998 | ペア |
エレーナ・ベレズナーヤ(Елена Бережная、Yelena Berezhnaya、1977年10月11日 - )はロシアのフィギュアスケート選手である。
[編集] 来歴
1977年生まれ。6歳でスケートを始める。スケートを始めてすぐに天性の才能で存在が知られるようになる。
1990年にモスクワへ移る。オレグ・シリアコフと組み、ペア競技に取り組む。
1994年に開催されたリレハンメルオリンピックでは8位の成績を残すも、シリアコフとベレズナーヤの関係は決して良好なものではなかった。その理由は両者の性格上の不一致であるといわれている。
1996年、サイド・バイ・サイドのキャメルスピン(片足を氷と水平に突き出して二人で回転する技)の練習中、 シリアコフのスケートの刃がベレズナーヤの頭部を損傷するという事故が発生。ベレズナヤは手術によって快復に向かったが、この事故のため一時ベレズナヤに言語障害が発生した。この事故をきっかけとしてベレズナヤはシリアコフとのペアを解消した。かねてからベレズナヤを心配していたアントン・シハルリドゼは病院に駆けつけ、彼女と新たにチームを組むことを決心した。同時にシハルリドゼはマリア・ペトロワとのチームを解消した。
サンクトペテルブルクに拠点を移してスタートしたシハルリドゼとのチームは成功し、1998年の長野オリンピックには優勝候補として挑んだものの、ショートプログラムでシハルリドゼが転倒して2位となる。ただしこの時の彼等の芸術点(現在のPCSに近い位置づけ)はジャンプの失敗にもかかわらずほとんどが5.9という非常に高い評価を受けた。フリープログラムでも最後のリフトを失敗して転倒。チームは銀メダルとなった。
以後、チームはペア競技の最強チームの一つとして認知されるようになる。
2002年のソルトレイク大会ではショート・プログラムで1位となるも、フリー・プログラムではシハルリドゼが3トゥループの着氷でミスを犯す。一方、銀メダルとなったサレー・ペルティエ組はノーミスで演技を終える。ところが、当時の旧採点システムは主観を優先したものであったため、ノーミスであったサレー・ペルティエ組が優勝できないのはおかしいという世論がカナダとアメリカ合衆国において盛り上がった。
北米マスコミによるメディアスクラムの中で行われたISUの会合の席で、フランスの審判員が「アイスダンスででマリア・アニシナ&グェンダル・ペイゼラ組を優勝させてもらう見返りとして、ペアではベレズナヤ組を勝たせる」よう、フランス連盟会長から言われていたと口走り、事態は過熱していった。結局はISUの裁定によってサレー・ペルティエ組にも金メダルが与えられて事態は収束した。この経緯については「ソルトレイクシティオリンピックにおけるフィギュアスケート・スキャンダル」の項目が詳しい。
[編集] 特筆すべき技術
華麗な戦歴よりも さらに特筆すべきなのはベレズナーヤのスケート技術の高さである。彼女はスローイングジャンプで幅のあるスローをされても美しいスパイラルポジションで着氷し、綺麗に流れた。常に背筋は伸び、デススパイラルでも優雅なポジションを維持した。ほとんど常に理想的な美しい姿勢をとりつづけ、高い評価を得た。
[編集] フィギュアスケートに与えた影響
彼女のチームとサレー・ペルティエ組を巡る論争は、結果として国際スケート連盟に「新採点システム」を導入させることとなった。「新採点システム」は、ジャンプにおける着氷のミスをそのまま順位に反映させるよりは演技全体の質を総合的に評価する形に変った。
「新採点システム」導入の結果、フィギュアスケート競技がジャンプだけでなくスピン、ステップ、プログラム構成、スケーティング、音楽表現など様々な側面から多角的に評価されるようになり、フィギュアスケート競技の進化が促されたことを考えると、新採点システムの導入の意義は大きい。
ベレズナヤ・シハルリドゼ組の場合、新採点システムであればジャンプのミスをカウントしてもまだ余りあるほどの秀でたスケーティング技術があり、その点を客観的にかつ総合的に評価するかという問題を提起したと言える。