エンリコ・ダンドロ
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エンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo、?-1205年、在任1192年-1205年)は、ヴェネチア共和国の第四十一代元首。
思慮深く、智謀に長けた人物であったという。在任前はコンスタンティノポリスに滞留していたが、このとき、ヴェネチア人排斥運動に巻き込まれて、目を潰されて視力を失ってしまったという(但し、これをコンスタンティノポリス攻略の動機付けとして考えられた創作で、実際には高齢に伴うものとする説もある)。1192年、第四十代元首であったオリオ・マストロピエノが没した後、思慮深く、智謀に優れた有能な人物であったため、八十歳を越える高齢にも関わらず、第四十一代元首として選出されることとなった。
1202年、エジプト侵攻を目的とする第4回十字軍が結成されたが、このときの十字軍は軍資金が乏しく、遠征できるような状態では無かった。また、ダンドロもヴェネチアにとっては主要な交易相手国であるエジプトを攻撃されては困るため、十字軍に資金を援助する代わりに、当時ヴェネチアと敵対関係にあったザラ市を攻撃するように要請したのである。これが見事に成功し、第4回十字軍はザラ市に攻撃をかけ、自身も軍を率いて参戦した。
1203年、アレクシオス4世アンゲロスの要請を受けて、ダンドロや第四次十字軍はコンスタンティノポリスを攻撃し、当時の東ローマ帝国皇帝であったアレクシオス3世アンゲロスを追放して、1195年に皇位を追われたイサキオス2世アンゲロス(アレクシオス4世の父)を復位させた。勿論、その代償として、多大な報奨金を約束として取り付けたのである。
しかしイサキオス2世とアレクシオス4世は、1204年のアレクシオス5世ドゥーカスの反乱によって殺害されてしまい、この約束は果たされること無く終わった。このため、ダンドロは十字軍と協力してコンスタンティノポリスを再度攻略してアレクシオス5世を殺し、東ローマ帝国を滅ぼしてラテン帝国を成立させたのである。そして、そのラテン帝国の初代皇帝に、ダンドロは当時のフランドル伯であったボードゥアン1世を推挙し、彼を帝位に即けることに成功したのである。そして自身は、イオニア海沿岸一帯を東ローマ帝国旧領をヴェネチア領として組み込んで、ヴェネチア共和国の国際的立場をさらに高めると共に、地中海の制海権を掌握することに成功したのである。
1205年、死去した。正確な生年はわかっていないが、九十代半ばの高齢であったといわれている。彼の死後、ヴェネチアで留守を守っていた息子のラニエリ(ルニエロ)を後継元首に推す声が高まったが、ラニエリは「共和国で親子が続けて元首となった例はない」としてこれを拒否してピエトロ・ヅィアニの元首就任を支持した。ラニエリは後にヴェネチア軍によるクレタ島攻略に将軍として参加して戦死したが、その子孫は度々ヴェネチア元首の地位に就任している。