ガズニー
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ガズニー(Ghazni, ダリー語 : غزنى Ghaznī)はアフガニスタンの都市。ガズニー州の州都。人口は141,000人 (2006年の公式推計[1])。ペルシア語、アラビア語ではガズニーン غزنين Ghaznīn とガズナ غزنه Ghazna の双方で呼ばれた。
カブールとカンダハールの間に位置する交通の要所。標高約2220メートルの高地にある。商工業が盛んなほか、農作物の集散地としての役割も果たす。約130キロ北東にカブールが位置している。住民はパシュトゥーン人が多く、ハザラ人とタジク人がそれに続く。
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[編集] 歴史
古代の地理学者プトレマイオスも、この街を「ガザカ」として記録している。また、唐僧の玄奘が著した『大唐西域記』にも「鶴悉那」として言及が見られる。9世紀後半までカンダハールからガズナの地域はザーブリスターンと称し、突厥系と思われる「リトベール」という王に代々支配されていた。870年代にサッファール朝の始祖ヤアクーブ・ブン・アル=ライスがザーブリスターンを征服し、ガズナおよびアフガニスタン全域でもイスラーム化が振興するようになった。962年にサーマーン朝の将軍アルプテギンが、この地を都としてガズナ朝を建国した。以後、ガズナはパンジャーブ地方を経てインド方面へ通じる交易、軍事の重要な拠点としてゴール朝、ホラズム・シャー朝、モンゴル帝国の支配を受けてた。特にホラズム・シャー・アラーウッディーン・ムハンマドの三男ジャラールッディーンがガズナを含むアフガニスタン一帯を支配し、この地でモンゴル帝国の侵攻に抗して挙兵した事でも知られている。
その後、幾度かの統治者交代を経て、19世紀後半の第一次アフガン戦争ではイギリスによって攻略され、植民地の拠点の1つとなった。20世紀初頭にアフガニスタンが独立を果たすと、アフガニスタンに帰属する都市になった。
[編集] 遺跡
遥かな昔から、ガズニはカーブル攻略に欠かせない重要な関門とみなされて来た。経済的にも軍事的にも重要な位置にあるガズニは、かつての目の眩むほどのものではなくても、近い将来かならずや繁栄を取り戻すことであろう。
ガズニに現存する重要な遺跡には、ガズナ朝の皇帝マフムードの廟や、アブー・ライハーン・アル・ビールーニーの墓などが挙げられる。
ガズナ朝の建築物で往時の姿を留めているのが、2本のミナレットである。高さは約43 mで365 m隔たって並んでいる。学術的調査によれば、皇帝マフムードとその息子によって建築されたものである。1960年代には全長15 mの菩薩像が発掘されている。当時、ターリバーンは、遺跡の保護のために係官を派遣してはいたが、アフガニスタン内戦時に菩薩像は深刻な盗掘の被害を被っている。
[編集] 参考資料
- この記述はパブリックドメインの百科事典『ブリタニカ百科事典第11版』("Encyclopædia Britannica" 1911年版)に基づいています。
[編集] 外部リンク
- Ghazni.org
- 1911 encyclopedia entry
- The City Of Ghazni
- Map of Ghazni district
- Columbia Encyclopedia (Sixth Edition) - Mahmud of Ghazna
- Encylopaedia Britannica (Online Edition) - Mahmud
- Encyclopaedia Britannica (Online Edition) - Ghaznavid Dynasty
- Encyclopaedia Britannica (Online Edition) - Ghaznavids and Ghurids
- Columbia Encyclopedia (Sixth Edition) - Muhammad of Ghor
- Mahmud Ghaznavi's 17 invasions of India
- Mahmud Ghazni
- History of Iran: Ghaznevid Dynasty
- Rewriting history and Mahmud of Ghazni