キオッジャ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
キオッジャ (Chioggia) |
|
---|---|
![]() |
|
国: | ![]() |
州: | ヴェネト |
県: | ![]() |
測地系: | 北緯: 45°13′0″ 東経: 12°17′0″ |
標高: | 海抜 m |
面積: | 185 km² |
人口: | 51,336 2004年12月31日 |
密度: | 280 人/km² |
分離集落: | Brondolo, Cà Bianca, Cà Lino, Cavanella d'Adige, Isola Verde, Sant'Anna, Sottomarina |
隣接コムーネ: | カンパーニャ・ルーピア、 コデヴィーゴ (PD)、 コーナ、 コッレッツォーラ (PD)、 ロレーオ (RO)、 ロゾリーナ (RO)、 ヴェネツィア |
CAP(郵便番号): | 30015 |
市外局番: | 041 |
ISTATコード: | 027008 |
IDコード: | C638 |
住人の呼称: | chioggiotti o Clodiensi |
守護聖人: | San Felice |
祝祭日: | 6月11日 |
公式サイト | |
キオッジャ(Chioggia)は人口51,755人のイタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県のコムーネの一つである。 最近ヴェネツィアから芸術の街と宣言された。
[編集] 歴史
キオッジャ(Chioggia)の起源はヴェネツィアと同様に伝説の域に埋もれている。 実際に「アンテーノレ」が敗北してトロイアからアクイッロ(Aquilio)とクローディオ(Clodio)と一緒に逃げ、アドリア海の海岸に避難場所を見つけた 伝説は次の様に連想を起こさせる。アクイッロ、アンテーノレ、クローディオはそれぞれ、アクイレーイア、パドヴァ、クローディア(Clodia)という地域共同体を作った。 最後には、クローディオは赤い立ち上がった獅子の印をトロイアの記憶の為に選んだ。 クローディアと言う名前は世紀を経る毎にクルーザ(Cluza)、クルージャ(Clugia)、キオッツァ(Chiozza)と変わりキオッジャ(Chioggia)となった。 5世紀に書かれた古い資料には、街はビザンティン帝国の一属州の一部となったとある。 中世には街は独立コムーネとなり、1110年には司教座となった。 歴史上重要な1ページはキオッジャの戦いと呼ばれるジェノヴァとヴェネツィアとの戦いである。 1379年、街はジェノヴァの手に落ち、1380年にはヴェネツィアが取り戻した。 キオッジャは、1797年にナポレオンの手によりヴェネツィア共和国が滅亡させられるまでその一部となった。 続いてカンポフェルミオの和により1798年に街はオーストリアに組み入れられた。 1866年にイタリア軍が街を解放しイタリア王国に併合されるまで、オーストリアとフランスが交互に街を支配した。 第二次世界大戦中は連合国の空軍の絨毯爆撃の危険にさらされた。 市民の蜂起のおかげで、ナチスのファシストは降伏し、1945年4月27日街は連合軍により解放された。
アンノーネ・ヴェーネト | カンパーニャ・ルーピア | カンポロンゴ・マッジョーレ | カンポノガーラ | カオルレ | カヴァッリーノ=トレポルティ | カヴァルツェレ | チェッジャ | キオッジャ | チント・カオマッジョーレ | コーナ | コンコルディア・サジッターリア | ドーロ | エラクレーア | フィエッソ・ダルティコ | フォッサルタ・ディ・ピアーヴェ | フォッサルタ・ディ・ポルトグルアーロ | フォッソ | グルアーロ | イェーゾロ | マルコーン | マルテッラーゴ | メーオロ | ミーラ | ミラーノ | ムジーレ・ディ・ピアーヴェ | ノアーレ | ノヴェンタ・ディ・ピアーヴェ | ピャニーガ | ポルトグルアーロ | プラマッジョーレ | クアルト・ダルティーノ | サルツァーノ | サン・ドナ・ディ・ピアーヴェ | サン・ミケーレ・アル・タリアメント | サンタ・マリーア・ディ・サーラ | サント・スティーノ・ディ・リヴェンツァ | スコルツェ | スピネーア | ストラ | テーリオ・ヴェーネト | トッレ・ディ・モスト | ヴェネツィア | ヴィゴノーヴォ |
![]() |
この「キオッジャ」は、イタリアに関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(ポータル イタリア/ウィキプロジェクト イタリア) |