キュー・サムファン
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キュー・サムファン(Khieu Samphan, 1931年7月27日 - )は、カンボジアの元首相、国家元首。ポル・ポト派最高幹部の1人。
キュー・サムファンは1931年にカンボジアのスヴァイリエン州で裁判官の息子として生まれた。彼は奨学金でパリ大学に留学し、経済学を学び博士号を得て1950年に卒業した。1959年にカンボジアに帰国し、プノンペンの大学の法学部の教員となり、左翼系のフランス語新聞「観測者」(L'Observateur)を出版した。同紙はプノンペンの知識階級の中で評判になり、右翼に支配された政府とプノンペンの体制派を脅かした。政府は同紙を発行停止とし、サムファンは警察に記録写真を裸で撮影されるという辱めを受けた。
屈辱を経験したサムファンだったが、それは南ベトナムでのアメリカに対する、シアヌーク王子率いるサンクム(サンクム・リアハ・ニヨム, 人民社会主義共同体)との統一戦線の結成の妨げにはならなかった。1962年6月に国会議員に選出され、通商省長官に就任した。1963年2月にシェムレアプ州で学生による暴動が発生した。シアヌークは左翼を非難し、3月に政府に対する「破壊的活動分子」34名のリストを公表した。そのリストにはキュー・サムファンを含む5名の議席を持つサンクムのメンバーの名があった。サムファンは閣僚を辞任したが、議席はそのまま保持された。
1967年前半に北西部のサムラウトで農民反乱が発生、ロン・ノル政府は反乱を弾圧した。シアヌークの反乱に対する警告は、元サンクムの左翼が反乱を煽動したとしてメンバーの拘束が行われることとなった。キュー・サムファンはフ・ニムおよびホウ・ヨンと共に地下活動に入りその姿を消した。彼らは警察によって殺害されたと推測された。
1975年4月17日、クメール・ルージュがプノンペン制圧。 その後、国家元首にあたる国家幹部会議長を務めた。
2003年12月、公開文書で、民主カンプチア政権下での残虐行為の存在を認めた。しかし、これは1975年から79年までの200万人近くの人民への犯罪行為の責任を認めたものではないとし、自分の責任を否定した。
2006年8月29日の共同通信との会見でも、改めて虐殺への自信の関与を否定した。