カンボジア内戦
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カンボジアの歴史 |
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扶南国 (AD1 - AD630) |
真臘 (AD630 - AD802) |
クメール王朝 (AD802 - AD1432) |
中世カンボジア (1432 - 1887) |
フランス領インドシナ (1887-1953) |
カンボジア王国 (1954-1970) |
カンボジア内戦 (1967-1989) |
1970年のクーデター |
ポル・ポト政権 (1975-1979) |
マヤグエース号事件 |
カンプチア人民共和国(1979-1989) |
カンボジア王国 (1989-現在) |
UNTAC |
2003年のプノンペン暴動 |
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カンボジア内戦は東南アジアのカンボジアにおいて、カンボジア王国が倒れたのち、四派合同政権が統一するまでの間、20世紀後半に続いた内戦状態をいう。
目次 |
[編集] 推移
[編集] 暴動および戦争
カンボジアは1949年にフランス領インドシナからの独立を認められ、ノロドム・シアヌーク国王によって統治されていたが、王制に対抗する国内派閥の抗争があり、国内には不安定要素を抱えていた。1960年代中頃までに始まっていた王の微妙な調整策は失敗に終る。カンボジア領域内の北ベトナム軍およびベトコンの大規模補給基地の存在、カンポン・シャムの共産軍に対する補給揚陸港としての使用と同様に、隠密の情報収集、サボタージュ使命および南ベトナム軍とアメリカ軍による領空飛行は、カンボジアの偽りの中立を作った。しかし、1965年2月に米国が北ベトナムの空爆に踏み切ると、シアヌークは対米断交に踏み切り、ベトコンの拠点となった(シアヌーク・ルート)。米国はインドシナ安定と戦争の遂行のために、カンボジアに親米的な政権を樹立する必要があった。
[編集] 1970年3月のクーデター
シアヌーク国王がモスクワと北京への訪問途中であった1970年3月18日の朝、下院は急遽召集され、国家元首としてのシアヌークを退けることを満場一致で可決した。将軍ロン・ノルは非常時権力を与えられて首相となり、10月にクメール共和国の樹立を宣言した。一方、シアヌークの従兄弟であるシリク・マタクは、代理の首相としての彼の地位を保持した。ロン・ノルの首相就任式の際、米軍は空からシアヌークを批判するビラを撒き、ロン・ノルを援助した。新政府は米国に守られる形で権力の譲渡の有効性を強調し、それはほとんどの外国の政府に認められた。
当時、プノンペンのほとんどの中流層はシアヌークの政治にうんざりしており、政権の変更を歓迎した。しかし、彼は農村部においてまだ人気があり、クーデターの数日後にはシアヌークは北京においてロン・ノルへの抵抗を訴え、デモと暴動が国の至る所で生じた。3月29日には約40,000人の農民がシアヌークの復権を要求するためのデモ行進を行ったが、それらは軍隊と衝突し、多くの死傷者を生じた。また、ロン・ノルは翌1970年4月、アメリカ軍に自国への侵攻を許可した。これはベトナム戦争のホーチミン・ルートを粉砕するためだったが、彼はこのために国民の不人気を買った。
一方、シアヌークは中国にとどまったが、彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポトらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。10月、ポル・ポトはシアヌークを擁立してカンボジアに侵入、ロン・ノル政権との間で内戦が勃発した。
[編集] クメールルージュの支配
1972年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させ、この内戦に直接介入した。これによってベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは10月に軍事独裁体制を宣言し、翌1972年3月に大統領に独裁的権力をもたせた新憲法を公布した。しかし、中国からの密接な支援を受けたクメール・ルージュはこれと戦闘を続け、さらに1973年にアメリカ軍がベトナムから撤退するとロン・ノルは追い詰められた。1975年4月、遂にロン・ノルは国外へ亡命、隣国ベトナムではサイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終結した。この後、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城し、1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布し、国名を民主カンプチアに改称した。
クメール・ルージュは、「革命の恩恵は農村の労働者に与えられるべき」という視点から、都市居住者、資本家、技術者、学者・知識人など頭脳階級から一切の財産・身分を剥奪し、郊外の農村に強制移住させた。彼らは農民として農業に従事させられる一方、頭脳階級は反乱を起こす可能性があるという理由で皆殺しになった。反乱を企てた農民も殺された。反乱の首謀者になる可能性があるリーダー格の人間も殺された。革命が成功したことを知り、国の発展のためにと海外から帰国した留学生や資本家も、やはり殺害された。その数は100万人とも300万人とも言われている。また、子供は親から引き離して集団生活をさせ、幼いうちから農村や工場での労働や軍務を強いた。
クメール・ルージュ下の残虐行為に関する最も初期の記述のうちの1つは、イス・サリンによって1973年に書かれた。彼はクメール・ルージュの幹部メンバーであったがポル・ポトおよび民主カンプチアに幻滅を感じて党を去り、9か月後に密かにプノンペンに戻った。彼の著書『クメールの魂に対する後悔』(Sranaoh Pralung Khmer)は、クメール・ルージュが存在を秘密にした上部機構、中央委員会(Angkar Loeuあるいは単にAngkar)を明らかにした。中央委員会はKena Mocchhim(Committee Machine)と呼ばれた。
[編集] ベトナム軍介入
1978年1月、ベトナムと国境紛争を起こし、ポル・ポトはベトナムと断交した。この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。ベトナムはポル・ポト打倒を掲げ、ベトナムに亡命していたヘン・サムリンを首相に擁立して民主カンプチア領内へ侵攻した。
1979年1月、ベトナム軍はプノンペンを攻略し、クメール・ルージュ体制は崩壊、ベトナム軍はポル・ポト一派をタイ国境近くの山林まで駆逐した。そして親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立されたが、ベトナム軍は山深くに潜んだポル・ポトを捉えられず、ゲリラ化したポル・ポト派との内戦の泥沼におちいった。翌2月には中国軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、中国は戦争慣れし、ソ連から供与された最新兵器で武装したベトナム軍に惨敗し、3月には撤収した。その後、内戦はさらにクメール・ルージュに失望して離脱したシアヌーク国王派など、2派を含んだ複雑なものとなった。プノンペンを支配するヘン・サムリンはベトナムの傀儡と化しており、あまりに長いベトナム軍の駐留は国内外から非難された。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派は北京で会談を開き、7月には反ベトナム3派の連合政府・民主カンボジアが成立、カンボジアは完全に二分された。一方、1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談では、ベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、ベトナムはこれに従わず、3月にポル・ポト派の拠点を攻撃した。1984年7月の東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会談では、駐留ベトナム軍への非難共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に大攻勢をかけ、反ベトナム3派の民主カンボジアの拠点を攻略、3月にはシアヌーク国王派の拠点を制圧し、民主カンボジア政府はほぼ壊滅した。
[編集] 和平への道
1986年7月、社会主義ベトナムを率いてきたレ・ドゥアン書記長が死去した。新たに政権の座についた後継者チュオン・チン書記長は、ソ連のペレストロイカに倣い、それまでの硬直した社会主義体制からの脱皮を図り、12月に「ドイモイ」路線を採択し、経済開放と国際協調路線へと舵を切った。また、チュオン・チンは次々に政府首脳の入れ替えを行い、新体制の基盤を固めた。1988年6月、ベトナムは東南アジア長年の懸念であったカンボジア駐留軍の撤収をはじめ、翌1989年9月に撤退を終えた。その結果、ベトナムの軍事的な支えを失ったフン・セン政権は急激に弱体化し、完全な強者のいなくなったカンボジアは、国際社会によって和平へ導かれることとなる。
1990年6月、日本の東京で「カンボジア和平東京会議」を開催した。続く1991年10月、フランスのパリで「カンボジア和平パリ国際会議」を開催し、国内4派による最終合意文章の調印に達し、ここに20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
1992年3月、国際連合による国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC 明石康事務総長)が平和維持活動を始め、1993年4月から6月まで国連の監視下で総選挙が行なわれ、9月に制憲議会が新憲法を発布した。新憲法では立憲君主制を採択し、ノドロム・シアヌークが国王に再即位した。1994年にクーデター未遂事件が発生したが、これを最後に国内はおおむね平定された。1998年4月には辺境のポル・ポト派支配地域でポル・ポトが死んだことが明らかとなり、この地も平定された。