クシュ
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クシュは現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。
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[編集] 起源
最初の発達した社会がエジプト第一王朝(紀元前3100から紀元前2100)の時代ごろヌビアに現れた。クシュの国として知られている最初の国はケルマ王国で、紀元前2600年ごろに興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配した。文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、これらの人々についてはほとんど知られていない。
紀元前2500年ごろ、エジプトが南に移動し始めた。私たちの持つクシュに関する知識のほとんどはそれらを通してきている。しかしこの拡大は、エジプト中王国の凋落によって止まった。紀元前1500年ごろエジプトの拡大は再び始まったが、このときは組織化された抵抗に遭遇した。(歴史家たちはこの抵抗が多種多様な都市国家に由来するものなのか、一つの統一された帝国に由来するものなのか確信を持っていない。独立した国家という観念が土着のものなのかエジプト人から持ち込まれたものなのかということにも議論の余地がある。)エジプトは優勢で、この地域はトトメス一世の支配下におかれ「植民地化」された。トトメス一世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築いた。クシュはエジプトに資源を供給した。
紀元前11世紀にエジプトでの内部抗争により「植民地」支配が崩壊して、ヌビアのナパタに本拠地を置いた王国の独立運動が起こった。この王国は植民地の政権を転覆させた地元民によって支配された。エジプトの文化と技術の影響、例えば、ピラミッドの建築や、土着の神と同じようになされたエジプトの神の崇拝などにはっきりと見ることができる。
[編集] ナパタ
カシュタ王(Kahsta)とその次のピイ王の下で王国の本拠地ナパタはとても有力になった。ピイ王はエジプトを征服し、エジプト第25王朝を建国した。
紀元前671年にアッシリアが侵攻したとき、クシュはエジプトから撤退した。紀元前591年プサメティク(Psammetik)2世治世下のエジプトがクシュに進行した。おそらくクシュの支配者アスペルタ(Aspelta)がエジプトに進行する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。
[編集] メロエへの遷都
アスペルタの後継者が彼らの首都をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中だと信じている。他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。
他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。
紀元前300年ごろ、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。Diodorus Siculusは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネス(Ergamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスはアラカマーニ(Arrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニ(Arqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物だ。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある。
クシュは数世紀続いたが、私達はそれに関してほとんど情報を持っていない。初期のクシュはエジプトのヒエログリフを使っていたのだが、メロエは新しい文字を発達させ、メロエ文字で文章を書き始めた。メロエ文字はいまだに完全な判読はなされていない。国は近隣国との交易や、遺跡や墓を作り続けながら繁栄し続けていたようだ。紀元前23年にローマ帝国のエジプト総督ガイアス・ペトロニウス・ポンティウス・ニグリナス(Gaius Petronius Pontius Nigrinus)がヌビアの南部エジプトへの攻撃に対してヌビアに侵攻した。侵攻はその地域の北部を略奪しながら、北へ帰還する前紀元前22年にナパタを負かした。
[編集] 衰退期
クシュの衰退は物議をかもしている。ネロ帝の治世下で外交使節がメロエを旅している (Pliny the Elder、 N.H. 6.35)。 紀元2世紀後、王室の墓は規模と豪華さに関して縮小し始めていて、そして大きな遺跡の建築は取りやめられた様である。王室のピラミッドの埋葬もまた期限4世紀半ばには終わった。考古学上の記録は未知の集団或いはバラナ(Ballana)文化として知られている新しい社会への文化的変化を示している。
このことは西暦350年ごろエチオピアのアクスムからのエザナ王の侵攻によって王国が破壊されたという伝統的な学説とほとんど一致する。然しながらエチオピアの文書では彼らがすでに支配していた土地の反乱を鎮圧したことを描写しているが、ヌバ(Nuba)の事を述べているのみで、メロエの支配者については何も言及していない。
したがって多くの歴史家の学説はこれらのヌバはローマが呼ぶところのノバタエ(Nobatae)と同じ住民であるとする。Straboはローマ帝国が西暦272年に北部ヌビアを引き倒したときかれらはノバタエを権力の空白を埋めるために招待したと報告している。他の重要な要素はBejaの祖先であると考えられているBlemmyesである。彼らは砂漠の戦士ローマの領地を脅かしてそのためにもっと防御できるような境界へのローマの撤退を引き起こした。紀元4世紀の終わりに彼らは何とかヌビア南部のKalabshaのあたりのナイル川流域の一部を支配していた。
6世紀までにかつてメロエによって支配されていた地域に新しい国が作られた。それはほとんど確かにノバタエという国がノバティア(Nobatia)と言う国に進化したもののようで、そしてまたバラナ文化の影響下にあって、他に二つの新しい国がその地域に興った、即ちマクリア(Makuria)とアロディア(Alodia)で非常に似ていた。一方で西暦450年ごろヌバ(Nuba)の王によってベジャ(Beja)は砂漠に追放された。これらの新しいヌビアの国々はクシュから多くのものを受け継いでいたが、また非常に異なってもいた。彼らは古ヌビア語を話し、コプト語のを基にした文字を使っていた。つまりメロエ語とメロエ文字は完全に失われたようである。
メロエに置き換えられたNuba/Nobataeの起源は不確かである。それらは西から来て彼らの文化と言語を入植した人々たちに征服と威圧した遊牧民の侵入者かもしれない。ノバタエは実のところ土着の人たちで、そして数世紀の間メロエの指導者に支配されていた地域であるナパタの現地人であると。そしてノバタエという言葉は直接にナパタという語を指すのだとP.L.Shinnieは推測している。
[編集] 聖書中でのクシュ王国
この文明に与えられた名前は、旧約聖書に述べられた東北アフリカに移住したハムの息子の一人クシュに由来している。聖書から、エジプト南部とエチオピアの一部を含む大きな地域がクシュ王国として知られていたことがわかる。聖書はしばしばクシュ王国について言及している。このクシュ王国というのは南アラビアにあったと主張する人もいる。
[編集] 参考文献
- Jean Leclant. "The empire of Kush: Napata and Meroe" UNESCO General History of Africa
- A. Hakem with I. Hrbek and J. Vercoutter. "The civilization of Napata and Meroe" UNESCO General History of Africa
- P.L. Shinnie. "The Nilotic Sudan and Ethiopia c. 660 BC to c. AD 600" Cambridge History of Africa - Volume 2 Cambridge University Press, 1978.