クリュニー修道院
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クリュニー修道院(-しゅうどういん)は、フランス・ブルゴーニュ地方の現在のソーヌ=エ=ロワール県に909年9月11日、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。
修道院は創建後、ただちに教皇により認可された。初代院長ベルノーは修道生活立て直しのため「聖ベネディクト会則」の遵守を定めた。これが、その後、修道会での僧侶の生活の一切の根本となる重要な戒律となった。
クリュニー修道院は、中世にクリュニー改革とよばれる修道会改革運動の中心となり、最盛期には管轄下におく修道院1200、修道士2万を数えた。またその典礼の壮麗なことでも知られた。
927年から1156年がその最盛期にあたり、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出した。その最後にあたるペトルス・ヴェネラビリスはクレルヴォーのベルナルドゥスからその修道院の華美を非難された。このころからクリュニーの凋落が始まってゆく。
クリュニー修道院の聖堂は3期に渡って建築された。第1期の"クリュニーI"と呼ばれる初代の建物は、初代院長ベルノーの指揮の元に915年から927年に掛けて建設されたと見られる小規模な聖堂であった。第2期の"クリュニーII"と呼ばれる建築は、恐らくその権勢に相応しいものが要求されたと見られ、981年から1040年に掛けてクリュニーIの横に建設された。さらにそのすぐ後の1088年から1130年に掛け、恐らくクリュニーIを取り壊して、"クリュニーIII"と呼ばれる建物が建設される。この建物の拡張は13世紀まで行われ、最終的な聖堂の大きさは入り口から後陣までの長さが約190メートル、高さが約40メートルという巨大なものであった。(ちなみにパリのノートルダム大聖堂は長さが約130メートル)
この修道院はフランス革命によって破壊され放棄された後に、他の建造物の石材供給源になってしまったため、聖堂南側の翼廊の一部だけが当時の姿を残しているのみである。 現在はその残された翼廊に接して建物が作られ、国立職業学校として使われている。
[編集] 影響
「働くことは、祈りである」という言葉は、その後、キリスト教の倫理として、マックス・ウェーバーのいう資本主義の倫理にもつながる重要な命題となった。